見出し画像

どうせ自己満足な文章なら、思う存分自惚れろ

いいねもコメントも欲しいから、わたしは今日もnoteでエッセイを書く」で書いた通り、相変わらず、わたしはいいねもコメントも欲しくてエッセイを書いている。

エッセイを書き始めたのは本当に最近で、とにかくとめどなく常にいろんなことを考える頭の中を少しでも軽くしようと、言語化し始めたのがきっかけだ。

だから、別に誰かに読んでもらおうとか、感動してもらおうとか、そんなことは端から期待していない。ただひたすら、自分の気持ちに嘘をついたり蓋をしたりして文章を書かないよう、常に真っ白なnoteには、本音だけをぶつけていく。


わたしのエッセイは、フィクションとノンフィクションの狭間だと謳っている。ここに書いてあることはフィクションでありノンフィクション。だけど、それが現実であろうと妄想であろうと、わたしの頭の中にあったことには間違いない。嘘は書いていない。事実じゃないだけだ。

ちょっと屁理屈のような気もするけれど、フィクションでもわたし自身の気持ちが言語化されるのがゴールだから、何一つ問題ない。

もう少しおしゃれな言い回しやいい感じな表現をしたいとも思うけれど、まだまだわたしはエッセイストと呼べるにはひよっこもいいところだし、きっとこれから良い文章が作られるのだろう。


そもそも良い文章とはどんなものなのか。誰が決めるのか。たくさん言い値を貰えば良い文章のなのか。

常にみんなに刺さる文章を書こうと意識しているわけではないけれど、わたしはわたしなりの良い文章の基準があって、そこに達するようなものを目指して書いている。

良い文章だからお金がもらえる、悪い文章だからお金がもらえないしいいねもつかない。なんてことはなくて、どれだけ多くの人の目に留まって、心に残るかだと思う。


エッセイストのひよっこであれど、できることならわたしも多くの人に好まれるエッセイが書きたい。たくさんの人の目に留まって、心に残る文章が書きたい。

だけど、最初から全部できるわけじゃないから、わたしはわたしなりに良いと思った文章をコツコツ世に送り出していくだけだ。

そもそも自分のために書いているんだから、他人に評価される理由もない。それでもいいねやコメントが欲しいのは、わたしの思う良い文章が、他の人にもいいねと思ってもらえたと言う証拠が欲しいのだ。


ここ最近毎日noteを書いているけれど、一つだって良くなかった文章はない。常に良い文章だと思って世に送り出している。いいねが0であろうと30であろうと、わたしはわたしなりのいい文章を出していることには変わりないのだ。

たまたまテーマが多くの人の心に残っただけ。たまたま誰かの背中を押せただけ。たまたまいいなと思ってくれる人が多かっただけ。


わたしは、わたしの考える良い文章をエッセイストとして、こうして毎日noteに載せて世に送り出している。わたしのわたしによるわたしのための文章だから、せめてわたしだけは、ああ良い文章だな、と自惚れてやる。