死生観
生きるとか死ぬとか。
とか、という複数のものを列挙する際に用いる副詞を使ったが、生と死にならぶものは他にあるのだろうか。
思いつかないのであれば、生きると死ぬ。が正しい文章かもしれない。
他が思いついていないが、無いとも言い切れないので、今はとかで繋ぎ、終わる。
死にたいと思ったことがある。
死というものに興味がある。
それは生きているならば当たり前のことではないだろうか。
なぜならば、生きている限り意思とは関係なく死がつきまとうから。
そんなことを人に話すと、悩んでいるのか、病んでいるのか、変わっているな、生き辛そうだな、などと言われる。
私は死について考えることが生について考えることと同じくらいの価値を持つと思う。
なぜ生きるのか、なぜ生きているのか、どうして生きるのか、どう生きるのか。
考えれば考えるほど答えは複雑になる。それが楽しい。
生きることを考えると、それ以外の考えが端に追いやられる。
常に思考を巡らし、時にそれによって落ち込んだりする私にとって生について考えることは気分転換であり、心を軽くすることである。
生も死も考え極めることでたった一つの解にたどり着くものではない。人によって、また同じ人でも環境や状況、心境などあらゆる要素によって様々な考えができる。死生観は終わりがない。終わりがあるとすれば、それは考えることができなくなった時である。
その時まで私はずっと自らの死生観について考え、向き合い、付き合っていく。それが今の私の死生観だ。