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47歳で亡くなった母と、それに近づく娘

この間、友人とゆっくりご飯を食べていた時に、彼女がじっくりと聴いてくれたので、問わず語りのような感じになってしまったのだけれど、
なぜにこんなにいろいろなことを同時進行でやっているかと言えば、ひとつには「性格」。せっかちで短気なので、すぐに動きたくなる。
それと、ふと出てきたのが、「生き急いでいる」ということば。
一般的にはあまりいい意味で使われないのかもしれないけれど、考えてみれば、そのまま、その通りだなと思った。
私は、昔から、生き急いできたし、いまもそう。

実母が47歳で亡くなっているので、
私にとっては、10代の頃から、47という数字はひとつの指標、ベンチマークであります。
人は、突然死ぬ。目の前からいなくなる。
そのことを体感しているからこそ、私だって、いつ死ぬかわからないという思いが強い。それは40年後かもしれないし、明日かもしれない。

そうやって、強烈に死を意識しながら生きてきたから、一日、一日を、もったいないものとして捉えている節がある。身体も脳も健康で、体力もまだなんとかある、動けるいまのうちに動いておきたい、という感覚。
以前、インタビューをしたXジェンダーの方が「自分を使い切りたい」と言っていたのだけれど、それは私にもとてもしっくりと馴染むことばだった。

先日、めでたく誕生日を迎えました。もう特段、なんということもないのだけれど、刻々と、「そのとき」に近づいているのだなあという感慨深さはあります。

47歳はもう射程距離だし、その後の、自分の生き方が、楽しみでもあります。なんとなくそこから、自分の第3の人生のスタートのような、節目の数字です。

生きることとは、日常だ。その、日常のなかにこそ、有り難いものがある、何かとうといものがある、と信じて生きている。小さくて、見過ごされてしまいそうなものの中に、真実はある。そういうものを、見過ごさない、丁寧に拾っていると、人からは生き急いでいるように見えるのかもしれないし、実際、拾いつづけていくことは、あまり止まることを考えない。

ということで、今年も、生き急いで、どんどん進んでいく所存であります。