誰のための自意識か:西加奈子『舞台』
ここが舞台であることに耐えられるか
ピンチになっても自意識を守ることを優先させてしまう主人公・葉太は29歳。
『舞台』は、あまりにも生きにくそうな彼が、NY旅行中にひたすら自己と向き合うお話。
父との確執が丹念に描かれるが、彼への嫌悪感はとても同族嫌悪的。とにかく葉太の自分の生き方にしっくりきていない感がすごい。
共感したらやばいなと思う自分と、普通に共感しちゃう自分がいる。
うわああきついいいと叫び出したくなるような(ある意味共感できてしまうところがまた)葉太の行動にハラハラしながら読み進めていくと、「舞台」は残念なくらいあっという間に終わってしまう。
と同時にそのことが、この物語は葉太の長い人生のひとつのターニングポイントに過ぎず、彼の人生は続いていくんだと思わせる。
傷つきたくない
タレントの早川真理恵さんと西さんとの巻末対談にもぐっとくる。
子犬を可愛い!と言う→子犬を可愛いと言う女はそう言う自分が可愛いと思っている(という空気がある)→自分を可愛いと思っていると思われたくないため、可愛いが言えなくなる、というようなエピソードが出てきて思わず頷いてしまう。
可愛いが言えなくなるのは、自分を守りたいからだ。
相手に嫌われたくないから。相手に悪い印象を与えたくないから。
何より相手の言動に傷つきたくないから。
そういう状態の時は、相手が自分をどう思うかを極力コントロールしたいと思っている。自分の行動によって自分の性質がネガティブに規定されること(ここでは「自分を可愛いと思っている」→調子にのった人間である)を恐れている。
誰のための自意識か
葉太のたどり着いた結論のひとつは、演じることへの寛容だった。
自分の印象をコントロールするために演じることは悪いこととは限らない。演じていても別にいいじゃんということだ。
初対面の人と話す時、友人と話す時、おじいちゃんおばあちゃんと話す時、子どもと話す時、私は私でありながらも、それぞれ別の人のようでもあると思う。
演じているといえば演じている。だけどそれは悪いことでもないようにも思う。
そういう自我をそのまま許せるようになるまでには時間がかかる。
私の場合は、人からの評価が気になる時に発動する自意識と、自分がこだわりたい譲りたくないという自意識(美意識というのかもしれない)を分けて考えられるようになってからストンと楽になった気がする。
その自意識は、誰のためか。
この自意識は自分のため。人から身を守るためではなく、自分を整えるために発動させたい。