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私の鬱

こんにちは。ももかたまちゅりです。

私は私が鬱だったと思っている。
"だったと思っている"と言って、察しの良い方はわかるかもしれないけれど、実際に病院に行って診断されたわけではありません。
ただ、うつ病の診断テストをすれば必ず「病院に行ってください」と書かれたし、症状的にも、鬱だったと言える。

"だったと思っている"ので、今は回復したと考えています。
もちろん人間なので、落ち込んだり無気力になったりすることもあります。
でも、それは生きていれば誰しも抱くものだと思うし、少なくとも、消えていなくなりたいとは思っていないから、全く問題はないと思っています。
多少のストレスは創造性を高めるので、むしろ、少しの憂鬱くらいはあった方がいい。
私は私の創造性が好きだからね。
今回はそういう話。

私の症状が最も酷かったのは、浪人生の時から大学2年生にかけてです。

過眠症だったのが突然不眠症になり、夜中に理由もなく涙が止まらなくなり、電車に乗ろうとすれば 車掌さんに注意される始末。
首に紐をかけて 泣きながら笑い、壁に頭を打ち付けては母に止められました。
さらに、一時期 2日に1回食事をとるかとらないかの生活をしていたので、身長160センチで体重が40キロになりました。
160センチ 女性の平均体重が56㎏強なので、けっこうやばいです。
隙あらばずっとベッドと仲良しこよし してました。

特に何も変わったことはないのに、ずっと涙が出てくる不思議。
病んでるつもりはないけれど、何をやるにも体が重たくて起きていられない。
食事をするとき 箸すら重く感じました。
食べ物を口に運ぶのがめんどくさい。噛むのがめんどくさい。飲み込むのもめんどくさい。
当然 お風呂も歯磨きもできる体力はありませんでした。

症状が一気に出たわけではありませんでした。
時間をかけて、ゆっくりと私を蝕みました。

高校三年生のとき、行きたい大学もなく 親に言われるがまま 全く勉強せずに大学受験をしました。
当然 最低ランクの大学しか受かりませんでした。
両親が「浪人しなさい。」と言うので、流れるように浪人しました。
「お前にいくらかかってると思ってるんだ。」「誰のおかげで学校へ行けてると思ってるんだ。」「誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ。」と言われ慣れていたので、予備校には意地でも通いませんでした。
高校の友人はみんな大学生活を楽しんでいたし、両親は働いていたし、兄弟も学校に行っていた。
私は本当の孤独を知りました。
自分だけがこの広い世界のなかで、ひとりぼっちみたいな気分。
暗い部屋に、ひとり、取り残された気分。

半年間ほどボーッとしていたのですが、母に美大を勧められ、興味がわいた私は、美大を受験することにしました。
小学生以来 初めて"努力"をしました。
そして、晴れて第一志望の美大に合格しました。

ところが、母は「やっぱり美大に行かないで。」と言いました。
しばらく理解が追い付きませんでした。
母は続けて言いました。
「お姉ちゃんがストレス性の病気になった。手術するためにお金が必要だから、美大には行かないで。」
そんなことを言われては、引き下がらないわけにはいかないでしょう。
だって私は、姉を守ると決めたのだから。

そして私の崩壊は始まりを告げました。
全身を無気力が襲いました。
その横で母は毎日何時間も「お母さんのせいじゃないからね、あんたが美大行けないのはお母さんのせいじゃないからね。」と唱えました。
普段なら「わかってるよ、うるさいな。」と返すところですが、口を動かすことすら面倒でした。

2,3ヵ月そんな状態が続きましたが、ふと気づいたんです。
トイレに行ったときに、太ももを見たら……「なんだこの棒は!!」と。
棒、変な意味では全くなく、足の肉がなかったんですよ。
今まで普通に太ももがあって、ふくらはぎがあって、普通にちゃんと足でした。
なのに、今はただの棒だと、そう思ったんですよね。
そこで初めて冷静になったんです。
「なにやってんだ?」と。

せっかく大学に行くんだし、美大には行けなかったけどお姉ちゃんのためなら仕方ないか。と開き直りました。

美大に100%合格すると信じていた私は、美大以外の大学をてきとーに選びました。
その結果、結局行くことになったのは最低ランクの大学……。変わらないじゃん!!!

でもその大学にはものづくりができる施設がありました。
てきとーと言っても、ものづくりをしたかった私は、一応ものづくりのできる大学を選んでいたわけです。
学部はほんとにてきとーで、情報学部という、全く興味のなかった分野になりました。

美大に行けたはずなのに行けなかったという悔しさから、猛烈に大学生活を楽しもうと意気込んでいました。
しかし、無駄にプライドの高かった私は、やる気なんてものが皆無のFラン学生(最低ランクの大学に通う学生)たちとの、気持ちの差に絶望しました。
授業なんてほとんど誰も聞いてない。
サークルに入ってる人も少ない。
授業なんて聞いてなくても単位がとれるのに、落とす人がいる。
不思議でしょうがなかった。
こんな人種がこの世にいるのか……と。
自分がクソみたいな人間だと思っていたから、それ以下の人がいるなんて考えもしなかったと。
イライラしました。

もう、この文章 書いてるとイライラしてきますね、自分に。(笑)
なんだこの上から目線は。なんだこの見下し方は。
でも本当に、当時はそう思っていたんですよね。

そして孤独を極めていき、良くなったように見えた鬱は悪化していきました。

鬱が最悪の状態になったとき、頑なに「一人暮らしはさせない。」と言っていた両親が、一人暮らしを許可してくれました。
一人暮らしを初めてから、私はひたすらものづくりに没頭しました。
作ったもののなかで一番大きなものは、テレビ台です。多く作ったのは、陶芸作品でした。
毎日土に触れ、何をつくろうか?と考えていました。

ひんやりした土に触れると、不思議と心が落ち着いてきます。
回るロクロを見ると、集中力が高まります。
どんな色をつけよう?どんな焼き方にしよう?
ものづくりは想像力を豊かにする。
想像力が豊かになると、狭まっていた視野が広くなる。

私の大学は、ものづくりに強い大学でした。
ものづくりのコンテストで賞をとってる人たちがたくさんいました。
「あれ?私が見下していた人たちは、勉強は不得意かもしれないけど、他のことではすごいんじゃない?」と思うようになりました。
よくよく聞いてみると、同じ学部のなかにも、ゲームの世界で1位という人が何人かいました。
その内1人はあるジャンルでかなり有名な人らしく、ネットで動画もあがってるらしい……。(見たことはない)

相変わらず、授業でやる気のない姿を見ると呆れたけれど、イライラはしなくなりました。
イライラしなくなると、不思議と人も寄ってきます。
人と仲良くなると、やさしさに触れられます。
ものづくりをしている私に「お金を払うから作ってほしい」と言ってくれる人まで現れました。

そうやって人と仲良くなり、話をして、語り、いろんな考え方を知り、向き合い、私は鬱じゃなくなった。

最初はバカにしていた大学だったけど、結果、行ってよかった。
あの大学で、良かった。
私の人生の転機だった。
これが私の人生の創造性

ps.創造性の意味合ってるのか知らんけど!(笑)

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おかもと あとか
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