『異世界失格』傑作の可能性を持っていた佳作(2024年夏アニメ総括)
今シーズン(2024年夏アニメ)、数ある作品の中で第1話視聴時点で最も期待していた本作。傑作の可能性を秘めていたと思うのだが、残念ながら佳作止まりだった。この物語でセンセーや周囲の人物はどうあるべきだったのか?についての私見
今期のアニメを振り返る
今シーズンのアニメは不作だったと思う。これは『ユーフォ3』『ガルクラ』などの傑作があった前シーズンの反動による印象の面もあるだろう。私個人の視聴状況は次の通り(まだ最終話を迎えてない作品もあるが結果は変わらない見込み。また、ここに登場しない作品はそもそも関心がわかなかった)
毎週楽しみに最後まで見終えた作品
『異世界失格』
イマイチと思いながらも最後まで見終えた作品
『真夜中ぱんチ』
『逃げ上手の若君』
『負けヒロインが多すぎる!』
関心が続かず途中でやめた作品(カッコ内は視聴した話数)
『ラーメン赤猫』(7)
『俺は全てを【パリイ】する』(6)
『魔導具師ダリヤはうつむかない』(5)
『ダンジョンの中のひと』(4)
『菜なれ花なれ』(3)
『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』(3)
『天穂のサクナヒメ』(3)
ビッグタイトルが漏れていることを不審に思う人もいるだろう。「1話切り」は記載してない。その中には見始めて1分で耐えられずにやめた作品があるが、なぜ耐えられなかったのかは自分なりに言語化する必要を感じており、今後の宿題にしたい。
物語の創作は難しい
ウザい自分語りになる(ルパさんに怒られる)が、私はここ約2年ほど膨大な時間を費やしてアニメを見ている。以前どこかで書いたが、私は作り物の実写ドラマには全く興味がない(スポーツなどのドキュメンタリーは好き)。見るのはもっぱら登場人物が作中でリアルに生きているアニメ作品だ。
この視聴習慣の背景にストーリーテリングの「クリエイティブ・ライティング」や「ナラティブ・トランスポーテーション」への関心があり、これを普段の(スゴイタカイビルでの)業務に活かせないかと考えていたからだ。
そのために末尾のリンク先に掲載した参考文献を読んで独学中で、あらためて認識したのは「物語の創作って、こんなに難しいんだな」ということだ。
これまでは単に物語を消費する立場で
この作品は面白い(理由は分からんけど)
これはつまらない(理由は分からんけど)
だったが、作品の背後には優れたストーリーを創作するための理論や原則、技巧が様々に存在していることを知った。そして、それらの理論や技巧は物理現象とは違い、生み出す効果や再現性が保証されないときている。
ではあるが、よく言われる通ように「勝ちに不思議の勝ちあり」「負けに不思議の負けなし」で、駄作にはそれなりの理由があるものだ。もろちん、私は『異世界失格』を駄作というつもりはない。私にとってアニメ『異世界失格』は「傑作になるポテンシャルを持っていたのに、それを活かせずに佳作止まりだった惜しい作品」だ。
以下、素人のつまらない見解ではあるが本作でセンセーと仲間たちはどうあればよかったのか考えたい。
センセーについて
以前のエントリーでも述べたが本作の主人公・センセーは捻りにひねった設定のキャラだが「愛する人にもう一度会いたい」という思いは誰もが共感できる根源的な欲求なので主人公としての資質は問題ない。
しかし、その「会いたい」が行動につながっていなかったと感じる。キャラクターの本質を示すのは発言ではなく、その行動だ。ギャグ表現ではあるものの、棺桶に入って旅の行き先を人任せにするのではなく、さっちゃんに再会したいと心底願うのであれば、自分自身の意思で行動する、もしくは行き先を指定するといったアクションが必要だったように思う。
もしかすると、最終話で描かれた砂漠を先頭で歩いて行く姿がそれを表していたのかもしれないが、そこまでの人物面での変化が分かりにくかったとも思う。
周囲のキャラについて
これも別のエントリーで書いたが、周囲のキャラ達は主人公と関係性を築くために設計されている必要がある。本作ではアネット、タマ、ニアのことだが、彼女たちはアネットが治療担当、タマが戦闘担当という表面的な役割分担はあったが、主人公が抱える課題や欠点を対照し、主人公の成長を促す存在には見えなかった。
他にも、魔王の娘や各地域の神官、教皇など、意味ありげに登場したが物語で果たす役割が曖昧なまま放置されたキャラが多かった印象だ。
物語の登場人物とストーリー構成は一体で設計するのが原則とされているが、本作ではそれらが別々に考案されたのではないか。そのため、キャラの存在やストーリー展開がどうしても場当たり的になったように感じる。
(キャラクターとストーリーを一体で設計した作品例は下記『ガルパン』のエントリーをご参照いただきたい)
こうした周囲のキャラ設定は、そもそも主人公・センセーを物語でどう描く構想かに影響を受ける。センセーはこの物語で人間的な成長があったのか、そもそもそのような人物として設定されているのかわかりにくかった。
これはいわゆる「キャラクターアーク」のことで、センセーの物語はポジティブな変化のアークなのか?それともフラットなアークなのか?それが読み取れなかった。(キャラクターアークについては、別途取り上げる予定)
最終話で愛しのさっちゃんから「変わった」と言われたのだから、センセーに何らかの変化があった設定なのだろう。しかし、その変化がなぜどんな面にあらわれていたのか読み取れなかった。
他にも指摘すべき点はあるがあら探しのようになるのでやめる。ともかく、私としては1クール見終えて、「惜しい作品だったなぁ」と思ってしまうのだ。
本質的な問題は何か
このように傑作のポテンシャルを持ちながらそこに到達できない作品は少なくない印象を私は受ける。ここからは全くの戯言として読み流して欲しいが、問題は現在のアニメ製作のビジネスモデルではないだろうか?
アニメ製作はハイリスク事業だ。リスクを下げるには投資を抑える必要がある。しかし、一定のクオリティは維持しなければならない。そのため、ヒットするか全く未知数のオリジナル作品は作りにくく、マンガやラノベが原作のアニメ作品が増える。
オリジナル作品なら1から検討が必要な内容も原作を流用すれば足りるのでその分のコストを他方面に回せるし、原作が一定の知名度を持っていることによる宣伝効果もある。これもコスト削減につながる。
もちろん、版権獲得に必要な費用はあるだろうが、原作の出版元が製作委員会に入っていれば解決可能なのではないか(そういう構成の製作委員会が多いようなので。よー知らんけど)そうであれば、アニメ放映の効果で原作が売れれば、これも事業リスクの低減につながる。
問題は原作となるマンガやラノベは掲載媒体で連載を続けること、つまりストーリーがとにかく先へ先へと継続することに主眼があるため、それを1クールのアニメとして切り出す場合に、どうしてもストーリーを展開しきれなかったり、そもそも原作ではそのスパンで登場人物の成長を描き切ってなかったりという事情に直面するのではないか。
また、マンガもラノベも原作者は少人数でリソースに制約がある。連載開始前に相当深く設定を練り込んでおくのでなければ、いざ連載開始後に細部を設計しようにもそんな余裕はない(というより、それでは手遅れ)
その場の思い付きで次々とストーリーを進め、新たな登場人物を追加し、どうしてもとってつけたような展開に陥ってしまうのかもしれない。そのため、原作をそのままアニメ化しても、1クールごとの完成度で評価すると「どうもイマイチ」になってしまうと考えられる。
以上は思いつきの戯言だが、こう考えるとオリジナル作品は貴重だとあらためて認識したので、今後はそうした作品に一層注目していきたいと考えている。
参考情報
本ブログで使用している物語のジャンル名(「金の羊毛」「バディとの友情」など)は下記エントリーで紹介しているので、興味があればご参照ください。
https://note.com/momokaramomota/n/n59516100fd93
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?