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【6.差別について考える~その①】

前回、ワイドショーへの疑問を書く中で、自民党の麻生副総裁の“差別”発言騒動のことを書いた。
 
差別がいけないのは当然だが、本来、差別には当たらないようなものまで、差別的に扱う最近の風潮は、かえって差別の本質を見えにくくしているように思う。

また、これまで普通に話せていたことが、差別的と言われるようになって、徐々に日本語の豊かな表現が失われ、また、何か息苦しい世の中になっていくような気がするのである。
 
そこで今回と次回の2回にわたって、改めて差別について自分なりに考えてみることにした。
 
重いテーマであるが、安易に社会の風潮に流されることなく、真剣に差別を考えることは、より明るい社会を創っていくうえで大事なことだと思う。
 
なお、テーマの関係で、差別語とされる用語も使用していることをお許し願いたい。


行き過ぎた人権意識

前回書いたことを少し整理する。
 
今年1月、自民党副総裁の麻生さんが、上川外務大臣の仕事ぶりについて、
「そんなに美しい方とは言わないが、堂々として英語もきちんと話し、こんな外務大臣は今までいない」
と発言した。
 
私には、単純に誉め言葉にしか思えないのだが、「そんなに美しい方とは言わない」の部分が差別的であるとして切り取られ、ワイドショーのコメンテーターから、「ありえない」「日本の恥」などと、一斉に袋叩きにされた。
 
さらに、野党の一部議員は、麻生さんの発言を「ルッキズム」とまで言って批判した。
 
ルッキズムとは、外見や容姿などの身体的特徴に基づいて、他者を差別する思想や社会現象、
また、差別とは「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」とある。
 
この定義に照らしても、どの部分が、上川さんを不当に差別しているのか、どの部分がルッキズムなのか、私にはさっぱりわからない。
 
にもかかわらず、ワイドショーのコメンテーターや野党議員が、こぞって麻生さんを糾弾することはおかしいのではないかと書いた。


ここまでが前回までの話。
今回話したいのはその続き、さらに理解に苦しむ話である。
 
麻生さんに“差別された”当の上川さんは、なぜ抗議しないのかとの野党議員の国会での質問に、
「世の中にはさまざまな意見があることは承知しているが、どのような声もありがたく受け止めている」
と答えたそうである。
 
この答弁に対し、立憲民主党の議員はさらに、
「同じ境遇にある女性たちも同じように対応しなければならないと感じるリスクはないか?」
と追及したと言う。
 

この発言が、私には信じられない。皆さんはどう思うだろうか?
 
この議員は、「ありがたく受け止める」という上川さん自身の想いに関わらず、上川さん同様、あまり美しくない女性のために抗議しなければならないと言っているように聞こえる。

個人の感情を無視して発言を強いることは、「言論統制」にもつながらないか?
 

報道では、質問を受け流した上川さんの答弁を「大人の対応」と言っていた。
 
上川さんの本音はわからないが、ひょっとすると上川さんは麻生さんの発言に抗議したいどころか、70歳を過ぎて、実績を重ねてきた上川さんにとって容姿の部分の発言は、「そんなことはどうでも良い」と言いたかったのかも知れない。
 
また、外相と言う重要閣僚である立場で、心にもない抗議をすることは、逆に「“そんなことはどうでも良い”女性に対し、抗議を強制することにつながりかねないリスクがある」とも考えたかも知れない。
 
かといって、思っていることをそのまま答弁したら国会が紛糾するので、上川さんは「大人の対応」をしたのではないだろうか。
 
以上は私の勝手な想像であるが、私にはこのほうがよっぽど自然に思える。
 

しつこいがもう一つある。
 
上川さんから、思い通りの答弁を引き出せなかった野党議員は、このやり取りについて、
「上川氏から十分な答弁がなく、がっかりした。たとえ外相でも、女性は抗議できないという自民党の限界が示された
と記者会見で言っている。
 
この議員は、上川さんが本音では麻生さんに抗議したいに違いないことを前提に、自民党の空気がそれを阻んでいると言うのである。
 
ここまでくると、言いがかりを通り越して、もはや妄想にも思えてくる。

繰り返すが、上川さんは、自民党の空気に屈して、悔しい気持ちを抑えて大人の対応をしたのではなく、単に「そんなことはどうでも良い」と言うことを婉曲に言っただけかも知れないのである。
 

話は変わるが、私は吉本新喜劇が好きである。

そこでは「ブス」や「デブ」「ハゲ」といった、この野党議員が聞けば泡を吹いて気絶するような、容姿に関する言葉が飛びかっている。

そしてそれに対して観客からは明るい笑いが起こる。
 

「あまり美しいとは言わない」と言う言葉に目くじらを立てるこの議員やコメンテーターは、当然吉本新喜劇や、それを見て笑っている観客に対しても、厳しく批判しなければならないだろう。
 そうでなければ、つじつまが合わない。

もし、ストレートに容姿をネタにする吉本新喜劇や、それを見て笑う一般市民のことは批判せず、立場上反論しづらい政治家個人を攻撃するのであれば、それこそダブルスタンダードであり、差別に当たりかねないと思う。


私は、誇張はあるにせよ、吉本新喜劇で演じられていることのほうが、社会の常識に近いと思う。というよりもそうであってほしいと思う。
 
容姿が良いに越したことはない。自分の容姿を気にしている人もいるだろう。

しかし実際のところ、人生において容姿はたいした問題ではないし、問題にすべきではないのである。
 
吉本新喜劇を見て明るく笑う観客の中には、おそらく「ブス」や「デブ」「ハゲ」(失礼)もいるだろう。その人たちにとって、容姿はたいした問題ではないのである。
 
持って生まれたものを「劣っている」と決めつけ、そのことに触れるのをタブー視するよりも、容姿がたいした問題ではないことを社会が理解することのほうが、よっぽど健全であり、生きやすい社会だと思う。
 
実際、「そんなに美しい方」でなくても、社会で輝いている人は山ほどいる。
 
ことさら容姿に関する発言をタブー視する人の心の中こそ、潜在的な差別意識を感じるのである。 


結局麻生さんは、みずからの発言について謝罪、撤回した。
 
個人的には、自身の発言は差別などではないと、毅然と主張してほしかった。
 
こんなことを言うと、野党や世間(の一部)から大反論を受け、国会どころではなくなるので、やはりやむを得ないのだろう。
残念だが、これが麻生さんの「大人の対応」だと思う。

「言葉狩り」の世界

いつの頃からか「言葉狩り」と言う言葉を聞くようになった。
 
これまで普通に使用されていた言葉が、過剰な解釈によって「差別用語」と見なされ、使用がタブー視されることを言う。
麻生さんに対する批判も言葉狩りの一例だと私は思う。


もう10年ほども前だろうか、私にもこんな経験があった。

ある自治体で研修の講師をしたときのこと、講義の最中に「片手落ち」と言う言葉を使った。

すると休憩時間中、自治体の担当者から
「『片手落ち』という表現は、片手のない人を連想させる差別用語なので使わないでください」
と注意された。
 
私には、どれくらいの人が、片手のない人を連想したのかわからないし、連想したとして何がいけないのかが想像できなかった。
 
ただ、こういうと面倒なことになるぐらいは想像できたので、研修再開後、40人ほどの受講生に不適切な表現があったことを謝罪するという、大人の対応をした。
 

研修講師の仕事を始めて、研修会社からは差別と受け止められかねない言葉は使わないようにと注意されていた。例えば次のような言葉である。

・奥さん:妻が奥にいる存在と思わせるので差別的であり、「パートナー」と呼ぶ。
・障害者:害を持っていると誤解されるため、「障碍者」あるいは「障がい者」と記述する。
・ブラインドタッチ:ブラインドは「盲目」を意味し、目の不自由な方を不快にさせかねないため、「タッチタイピング」が好ましい。


「言葉狩り」という言葉には否定的な意見もあるが、今の風潮はまさに「言葉狩り」と言う表現がぴったりだと思う。
 
以下は「言葉狩り」にあって使えなくなった言葉のほんの一例である。
 
身体的障害を連想させる慣用句は使えない。
「めくらめっぽう」「めくら判」「つんぼ桟敷」「足きり」「手短か」「片ちんば」など。
 
ジェンダー平等の観点から男女差を表す言葉は使えない。
「男らしい」「女らしい」「女々しい」「女子力」「男性的」「女性的」など。
 
容姿に関する言葉は使えない。
「ブス」「チビ」「デブ」「ハゲ」などはもちろん、「美人」「イケメン」など誉め言葉もNG。
 
初めて知ったが、「魚屋」「八百屋」「床屋」と言った言葉もいけないらしい。なんでも「〇〇屋」には、自営業者や零細企業に対する軽蔑の意味が含まれるそうである。
 
正しくは、「魚屋⇒鮮魚店」「八百屋⇒青果店」「床屋⇒理髪店」というらしい。また、「〇〇屋さん」はOKとのこと。

あまり一般的には広まっていないようであるが、放送業界では「放送禁止用語」なんだそう。


誰が言い出すのか知らないが、差別用語を見つける人たちの想像力に感心してしまう。

むしろ、言葉自体に差別的な要素を含まない言葉までも、差別用語とする人の心の中にこそ、差別意識があるのではないかと勘ぐってしまう。
 
私は現在障害者であるが、障害者という言葉に何一つ違和感はない。むしろそれにこだわる人に違和感がある。


昔は、今ほど人権意識が高くなかった。

その中で、もともと相手を侮辱する意図を持って作られた言葉がある。

また、本来差別的な意味はなくても、差別的な文脈で頻繁に使われるうちに、そうした意味合いが含まれるようになった言葉もあるだろう。
 
そうした言葉を見つけ出し、使用を制限することに異論はない。
 
しかし、本当に世の中から差別をなくすためには、人間が心の底に持っている差別意識をなくさなければならない

単に言葉狩りをすれば良いという、表面的な話ではないのである。
 
「めくら」を「目の不自由な人」と言い直したところで、差別的に使うのであれば同じこと。

「ブス」や「デブ」を禁じたところで、容姿を侮辱しようと思えば、いくらでも言い方はある。


「言葉狩り」は差別を矮小化する。
「言葉狩り」は、差別のない社会を創るどころか、差別意識を固定化し、潜在化させる。
 
容姿に関する発言が差別的だと言う人も、容姿に優劣があることを前提としているのではないか?
 
とすれば、その時点で、その人も口には出さなくても“差別的”である。

口に出すか出さないかの違いだけで、容姿に優劣があるという“差別意識”は残るのである。

こうして、容姿に優劣をつけることは、差別意識として固定化され、人の心の中に潜在化される。


ちなみに私が思う一番の差別は人格否定である。
 
仮に「そんなに美人とは言わない」と言う表現が差別的だとしても、発言した人を、「ありえない」とか「日本の恥」と、公共の電波でなじることのほうが、よっぽど問題だと思う。


以前、私はショートショートが好きだと書いたが、星新一の短編に「白い服の男」と言う話がある。
 
最終戦争の後、平和を実現するために、書物や歴史的建造物含め、「戦争」という概念そのものを消し去る社会が到来する。

そこでは、「戦争」という言葉を使ったり、興味を示したりした人間は、白い制服を着た特殊警察に、人類の敵として公開処刑されるという話である。
 
公開処刑とまではいかないまでも、差別語とされる言葉を使用した人に対する扱いは、この話を思い出す。
 
言葉狩りにあって姿を消した数々の言葉の冥福を祈りたい。

次回予告

63年生きてきて、初めて差別について真剣に考えてみた。考えれば考えるほど、思っていた以上に現状はややこしい。
 
私は差別主義者ではない。少なくとも自分ではそう思っている。差別はないほうが良いに決まっている。
 

差別用語を見つけ、使用を制限することで差別がなくなるのならば、それで良い。

ただ、「言葉狩り」は、さまざまな副作用がある。

そもそも、目的である差別をなくすどころか、差別を助長することにつながっているとすら思うのである。

だとすれば、将来の子ども達により良い社会を残すために、大人が今の流れを変えなければならない。


少し力んでしまったが、次回は、過剰な人権意識の問題点と、真に差別をなくす私なりの方法を考えてみたい。
 
 
私の意見が正しいというつもりはない。ただ、私と同じように感じている人も多いのではないかと思っている。
 

単にぼやきたいために始めたnoteだが、皆さんの意見も訊いてみたい。
そこで、清水の舞台から飛び降りるつもりで、月額500円を投じて、有料プランに変更した。

異論、反論含めて、コメントをいただければありがたい。


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