色や音楽の事をコトバだけで調べるって、少し前までは大変だったのだ。
若い子に、「ネットもスマホもない頃は、人との待ち合わせってどうしてたんですか」と聞かれ「そりゃあキミ」とエラそうに答えかけて(どうしてたんだっけ)と返事に詰まった。
もう思い出せない。どうしてたんだっけ。
待ち合わせに遅れるとか、待ち合わせ場所まで来ているのに相手が見つからないとか、そういう時の連絡なんかもどうしてたんだっけ。
改札脇なら掲示板なんていう、当時すでにノスタルジック感を漂わせていた便利なボードもあったけれど。
特に隅田川花火大会みたいなカオスなイベントでの集合なんて、一体どうやって集合してたんだっけ…。
* * *
それと同じように、ネット以前、スマホ以前にはどうしていたのかもはやよくわからない事がいろいろある。
海外の小説に登場する「はしばみ色」と表現される目の色が、かつてずっと分からずに想像することしかできなかった、というnoteを数日前に書いた。
例えば今ネットで調べれば、
シェイクスピアがヘーゼルアイズという表現を使ったことに端を発してヘーゼルアイズ=はしばみ色の眼、という表現が一般化した
というエピソード込みで実際のヘーゼルアイズのカラー写真にまで簡単に触れられる。
しかしほんの20年前までは、広辞苑にすら「はしばみ」という植物の一種としての特徴しか書かれていなかったのだ。
辞書をひいた挙句、どんな目の色なのか、ますます判らなくなるのだった。
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音楽のタイトルを調べるとか、そうしたこともとても難しかった。
80年代のNHKドラマに「阿修羅のごとく」という傑作があった。
脚本・向田邦子、演出・和田勉、出演・佐分利信、加藤治子、八千草薫、いしだあゆみ、風吹ジュンが一家で、それぞれが私生活では薄暗い秘密を抱えながら、家族としてはホームドラマ的ユーモラスさも湛えて暮らしているが、その表層にだんだんヒビが入っていく。
そんなドラマの冒頭に流れる音楽が、聴いたこともない不思議な旋律と迫力で、忘れ難かった。
テロップに一瞬、「トルコ軍楽曲」という文字が出たという記憶だけがあった。
なんたってまだ、家庭用ビデオもウチにはなかったくらいの時代だ。
再放送なんて、いつされるものか永遠にされないものか分からないのだから、優れたテレビ番組とはいつでも一度きりの真剣勝負のつもりで向き合っていた。
だからこそ「トルコ軍楽曲」という文言は憶えていたものの、数年後に銀座の山野楽器に行っても探しあてることはできなかった。
ましてや民族音楽のフロアの店員さんに、「阿修羅のごとく」というドラマの話をするとかメロディをその場で口ずさむとかは、自意識過剰な若者だった私には決してできなかった。
「トルコ軍楽曲」を探しても、あのご陽気でせわしないモーツァルトの「トルコ行進曲」しか見つけられない時代がずっと続いたがしかし、いつの間にかYoutubeという夢の利器が私の手元にも到達していた。
そしてそこで、数十年ぶりに聴けたのだ。
「阿修羅のごとく トルコ軍楽曲」と、検索キーワードを入力するだけで。
正確には「トルコ軍楽曲ジェッディン・デデン(Ceddin Deden)」という曲らしい。
そもそも、こんな音楽で始まるホームドラマを作る当時の異能の大人たちが悪いのだ。忘れられるわけがない。
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例えばいまこの文章を書いていて、運動会の徒競走の時に流れていたあの心を急かしてくる音楽はなんだっけ、と思って調べると、ほんの数秒で、「天国と地獄」や「道化師のギャロップ」や「クシコス・ポスト」といっためぼしい曲を視聴できて、私が思っていた曲は「クシコス・ポスト」という曲だったんだ、と知ることができるのだ。
これは、実は、ほんの十数年のうちに起こったとてつもない変化なのだと思うのだけど、いつの間にか、何でも当たり前のことになってしまう。
インターネットという、人類に光明を照らすこの集合知の仕組みは、諸刃の剣としての危うさも大いにあるものの、知の共有とか相互理解の礎としては、実に偉大なる恩寵なのだと思うのだ。
当たり前すぎて誰もわざわざ書かないだけかも知れないけど、その大いなるありがたみを、インターネット以前を知る者としてその頃との対比で、こうして書いておきたかった。
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