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喋らない人は居ないも同然か?
黙っていることで、喋ることがうまくない人の側に寄り添っている気になっていた時期もあった。
このあたりのことは、ずっとずっと気になっているが、何が良き選択なのか一度もわからない。
わからないまま、その歳ごとに、よく声を発したりしなかったり、人に喋ることを促したりしなかったりを選んできた。
会社で朝夕、リモートミーテイングをするようになって、その流れから毎朝、一分間スピーチもするようになった。
ネタの途切れない人、無理くり話しているであろう人、がんばって声を大きくして却って聞きずらい話ぶりになっている人、毎回一分で収まらない人(私だ)、話すことでいっぱいいっぱいで人の話が耳に入っていない人、結論から話せて尚且つひねりの効いた着地を決められる人。
その技量やスピーチ内容の有益性や訓練としての成果の多寡は様々だ。
だがやはり、うまくない人、上っ面な話ぶりの人、成長が乏しいように思える人の話を聞く時は、こちらも緊張する。
そしてだんだん、耳がスルーするようになってくる。
リモート登壇を楽しみに待つスピーカーと、気持ちがよそ見してしまうスピーカーに、私のなかで大別されていく。
ただ、
「うまく喋れない人や黙っている人が、なにも感じていないわけではない」
ということだけは、私にもはっきりとわかっている。
言葉は言葉でしかなく、道具でしかなく、
しかし人の人生は言葉に大きく規定され、
「夕日が美しい」という言葉のないところでは夕日は美しくない。
言葉は、とてもとても、大切なのだ。
私はその人のもつ言葉でその人を好きになったり、深い興味を持ったりする。
コンテンツではなく、呼吸や度胸を含めた言葉使いで人を見てしまう。
喋らない人は居ないも同然か?
というタイトルでこのnoteを書き始めた時は「そんなことはないのだ」という着地点が見えていて書き始めたはずなのに、だんだん逆のような話になってしまったが、なら、そういうことなのだ今は。
居ないも同然とは思わないが、いま、社会はどんどんそちらに振れている。
黙っていても、何か喋っても、誤解されたり利用されたりすることも多い。
異国の人にもわかるように、
できるだけシンプルに、
できるだけ自分の言葉で、
できるだけ聞いている人ファーストな有り様で、
話せるように努力と工夫を重ねたい。
今どきは一分間スピーチもあるし。noteもあるし。
努力し放題ですもんね。