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愛し続けられる人は幸いなるかな

「トカトントン」という太宰治の掌編がある。
何事かに熱中しかけると、どこからともなく「トカトントン」という音が聞こえてきて、対象への熱意が急に醒めてしまう男の、独白体の小説だ。

思春期に太宰に触れた人が皆そう感じるように、私も彼の多くの小説に感化され(まるっきり自分のことを書いているようだ)と思った。
「トカトントン」も(ああ、まるでボクが書いたみたいな話だな)と中学生のくせにすでにそう感じた。

それから幾星霜のうちに、何度もこの話を思い出すことになる。
ただ、この小説の主人公と違うのは、好きになりかけると興味が薄れる、のではなく、私はしっかり夢中になるが好きである状態が持続しないのだ。

そんなの誰でもそうだろう、と仰る向きもあろうが、世の中には何十年と熱狂を持続できる人達もいる。対象への溢れ出る愛情が枯渇しない人達がいる。

大好きだった作家や映画監督や彼らのシリーズ作品や、アーティストや自分でもやっていたスポーツなどに、私はある日から見向きもしなくなる。

キライになるのではなく、関心がしぼみ切ってしまうという感じだ。

* * *

好意が持続しないだなんて人間性を疑われそうなことを書かない方がいいのかな、とも思ったが、よく考えると、好きだったものから興味が薄れることで、なぜ人間性を疑われるだろう。

確かに、目移りが激しいとか、対象への熱が低く飽き性とかいう人は、どこか信用しにくく薄っぺらい印象を受ける。

しかし、何年も瞬きする間こそ惜しんで見つめ続けたのだ。
作家たちの創造する世界を。アスリートの跳梁するフィールドを。
それが、何十年とは持続しなかったということだ、私の場合は。

「トカトントン」ではないが、私も醒め切る前に予感はある。
(ああ、もうすぐ足を洗うことになるな)という予感。
集中できず、新しさや深さを感じられなくなっている自分に、惰性の気配を感じ始めたらほとんどそれが「トカトントン」だ。

何年間かのあいだに、作家やアーティストやアスリートの方も様変わりする場合もあり、永遠の蜜月を願う方が無理なのかも知れない。

* * *

シナリオライターの山田太一さんが、作品のなかでかエッセイでか「愛し続けるということも、ひとつの能力なのだ」と書いていた。
愛した女性を失い、深く傷つくが、その哀惜の念が次第に薄れていく、そんな自分を許せないという男のドラマもあった。

できれば、そういう男でありたかった。
しかし、何者かや何事かに熱中していた以前の自分を、他人のようにさえ感じてしまうのが現実の私だ。

愛情や情熱が何十年と褪せない人への憧れは強く、それはしぼまずにきっと持ち続けられると、今は思っている。

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