擬似的記憶喪失
お金を下ろしたら残高が75円しかなかった、来月の十日まで財布の中身とにらめっこしながら極貧生活だ、笑うしかない。ガラス製の鍋の蓋を落として割った、ここ三ヶ月で5枚ほどの食器類を割っている、笑うしかない。
多分こんな風にキーボードをカタカタ鳴らして筆を走らせている場合ではない、けどこんな日ほど案外モチベーションが出てきたりするのが人生というもの。
折角なので、前にフォロワーの方から頂いた、”自分の犯してしまった過去の誤ち”や”消したくても消えない過去”などの後悔とどう向き合っているかを聞きたい、というリクエストを消化していくことにする。
まず端的に言うと、結論としては「笑えばいい」と思う。
頭にはてなマークが浮かんだ皆さん、大丈夫。
意味についてはこれからの説明を読んで欲しい。
リクエストをくれた方や大方の人間と同じように、私にも消したい記憶や後悔はあるし、そんなもの指折り数えるとキリが無い。
でも、自分が振り返りたくない、思い出したくもないことほどなかなか記憶から消えてはくれない。むしろ脳裏によぎる度にその影が色濃くなるような気がするのは誰しも思い当たる節があるのではないか。
自分が意識している限り、それを記憶から、自分の中から消し去ることは恐らく不可能。だから私は、そういう類いのモノについては最終目標を、'記憶の抹消'ではなく、'笑い話に出来るようになること'としている。人に笑いながらその話が出来るようになれば、それはもうきっと憎むほど嫌なモノではなく、今の自分を構成している一部にしか過ぎなくなる。
そうしていつの間にか他の出来事と同じように時の流れと共に忘れていく。
恋愛に於ける苦い思い出も、大切な人が死んだ瞬間も、友人関係の失敗も、部活や勉強でもっと努力しておけばという後悔だって、結局のところ私達にとっては過去を切り取った1枚にしか過ぎない。
当時はそれらについて話題に出すことも思い出すことも、きっと死ぬほど嫌だった。でも今はそれらを自分のアイデンティティの一つとして捉えている。要は考え方の問題なのだ。過去の過ちや消したい記憶を、自分を責め続ける足枷にするのか、はたまた笑える話の種として使うのか、その差が人生の生き易さにもたらす影響は大きい。
今は嫌でも、意識的にそれを他人に話す。自分一人で抱えてしまうからいけない。それで笑って忘れられればオールオッケー。
そうでなくとも、他人と共有することで何気ない一言で救われたり、それが、犯して良かった過ち、つまり未来に活かせる学びの一つとして今の自分の力になることもある。そうなったら就活やらなんやらで’挫折から立ち直った経験’として使ってやればいい。
だから私から言える事としては一言、「笑えばいい」
こんなところでどうでしょうか、答えになっているか微妙なとこで申し訳ない。リクエストについてはいつでもなんでも(書けるかどうかは別として)受け付けているので何かあればインスタのDMまで。