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記憶に留めておくために
ミュージシャンの米津玄師さんは子供のころ、宮沢賢治が書いた「春と修羅」の本をお守りのように鞄に忍ばせていたのだと、あるインタビューに答えていました。
宮沢賢治は、彼の創作に強い影響を与えた人のうちの一人だったようです。
この話を聞いて、なつかしさが胸にあふれてきました。
その昔、わたしは「春と修羅」の詩を、そらで言えるようになりたいと思って何度もくりかえし読んでいたことがあります。
そこはかとなく悲しく、静かな怒りが滲(にじ)みでているこの詩を心に刻んでおきたかったのです。
記憶しておくには長期記憶を司る大脳にインプットしておく必要があると知り、そのために、紙に書き出し、毎日繰り返し何度も読んでいました。
そして少しずつ、暗誦しては、つっかえるところをまた繰り返し覚えなおしていたことを思い出します。
すっかり忘れていたのに、一行目をキッカケに懐かしい響きがよみがえってきたのでびっくりしています。身体の奥深くにたしかに記憶されていたんだなあと思うと嬉しくてたまりません。
そう思うとやっぱり、大事なことって地道にくり返し頭に叩き込むしか方法がないのかもしれませんね。
下記に貼ってある木村多江さんの朗読すごく沁みます。
春と修羅
心象のはいいろのはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
砕ける雲の目路をかぎり
れいろうの天の海には
聖玻璃の風が行き交い
ZYPRESSEN 春のいちれつ
くろぐろと光素を吸い
その暗い脚並からは
天山の雪の稜さえひかるのに
(かげろうの波と白い偏光)
まことのことばはうしなわれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(玉髄の雲がながれて どこで啼くその春の鳥)
日輪青くかげろえば
修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつカラス
(気層いよいよすみわたり ひのき
しんと天に立つころ)
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまといおれを見るその農夫
ほんとうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
ZYPRESSEN しずかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
(まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる)
あたらしくそらに息つけば
ほの白く肺はちぢまり
(このからだそらのみじんにちらばれ)
いちょうのこずえまたひかり
ZYPRESSEN いよいよ黒く
雲の火ばなは降りそそぐ