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「十戒(1984)」の十戒要素

 最近、明菜ちゃんの曲をよく聴いている。
 未就学児の頃、母親が車の中でかけていたのを改めて思い出したからだ。その後もちょくちょく聴く機会はあったけれど、こんなにガッツリ聴くのはあの5歳の頃以来だと思う。
 出立ちがカッコいいよなあ、でもって目線はどこか儚い。ある時期からセルフプロデュースをし始めたっていうのも凄い。歌い、踊り、プロデュースを1人でできるなんて。
 そんな明菜ちゃんの曲のひとつ「十戒(1984)」は、曲もさることながら衣装が好きだ。あのふわっふわな黒のチュールのスカート…。死ぬまでに一度は着たいと思うスカートのひとつだ。

 話は変わって、私は学校で少し宗教学をかじっている。特にキリスト教の。宗教学は最も好きな勉強のひとつで、分からないなりに予習とか復習をめちゃくちゃ真面目にやっていて、様々な文献にあたっている。
 そうやって宗教学を通った私は、ある疑問を持つに至った。

 「十戒(1984)」の十戒要素、どこ?

 「十戒」の原義は、旧約聖書、ユダヤ教だとタナハの「出エジプト記」にある。モーセが海を割るシーンは有名だと思うけれど、あれはエジプトで奴隷状態になっていた民を率いて、海を渡らせて逃げるシーンなのだ。その後モーセは、シナイ山という山で「主」に臨み、10の戒律「十戒」を授けられた。(何か語弊があったら訂正してください)
 「十戒(1984)」の歌詞には、「モーセ」も「主」もないし、そもそも「十戒」という言葉が出てこない。上述のエピソードを思わせる場面はどこにもない。
 この曲を作詞した売野雅勇さんの記事などをいくつか見てみたけれど、この曲のタイトルが「十戒」である確固たる理由はやはり見当たらなかった。
 では、私なりに考えてみると…。

過保護すぎたようね
優しさは軟弱さの言い訳なのよ


 聖書において、「主」は民を一応守る。けれど、「あ、こいつら甘やかしすぎた、なめた態度取っとるわ、あかんわ」となると、人を全員根絶やしにしてリセットすることもある。有名な例が、「創世記」のノアの箱舟だ。(これは出エジプト記の、民が奴隷状態云々の前のエピソードだけど)
 何となくそれを思わせる歌詞だ。甘やかしすぎた。あかんわ。

ちょっと甘い顔をするたびに
ツケ上るの悪い習性だわ

 「出エジプト記」(に限った話ではないけれど)を一通り読んでみると、本当にこれが聖典なのか…?と思わされる。何せ、民が全く「主」のことを信じないのだ。
 エジプトを脱出する前段階で、「主」は何段階かに分けてエジプト人を懲らしめる。その懲らしめのやり方が、多いうえに結構ひどい。これが全知全能の「主」の力だ、と言わんばかりにめちゃくちゃやる。これを、奴隷状態だった民は一応凄いなーみたいに言う。
 しかし、これで「主」を完全に信じますとはならないのだ。脱出の過程で色々困難が生じるのだけど、まあ無茶苦茶に不満を垂れる。「主」は何してん。はよ奇跡くれや。モーセは何なん、「主」の力が何だとか嘘ついてるんちゃうの。まあ国外逃亡した挙句砂漠を彷徨うのだったら、疑いたくなる気持ちも無理はないけれど…。「主」への要求のハードルが段々上がっているのかもしれない。
 この歌詞からは、なんかそれを感じられる。ちょっと与えてやっただけでさ。そんな態度するんだったら、また痛い目に合わせるで。

 ここまでは私のこじつけ感が凄いけれど、個人的に、「十戒」要素をいちばん感じたのは以下のパートだ。

救いのない人ね 哀しくなるのよ
私好きならば方法あるはずよ
でなきゃさよならね いいわ冗談じゃない


 「方法あるはず」なのに、それをしないから「救えない」と…。
 まさにこういう思考回路から、旧約聖書、タナハは生まれた。「主」を信じる民には、歴史的に様々な困難が立ちはだかった。困難に抗いきれず、歴史の流れに従うしかなかったこともある。これを民は、「「主」のことを真面目に信じんかったから、こんなことが起こったんや!」と考えた。そうして、聖典が編纂されるに至った。「でなきゃさよなら」とはさせないために…。

 一応の結論。
 「十戒(1984)」の「十戒」要素は、主人公の女の子→「主」、男の子→「民」と仮定すると見えてくる。それとなく十戒の世界観を踏襲している感じに思えてくる。(これが結論…でいいのかな?)
 なんか思いの外、宗教学要素が強いnoteになってしまった…!これからもっと、「十戒」はじめ明菜ちゃんの曲は歌詞にも注目して聴いてみたい。

「十戒(1984)」の明菜ちゃん

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