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想像し、考え、理解する。という余白を残すこと。

教典  50  「想像し、考え、理解する。という余白を残すこと。」

私の教典も、記念すべき50回を迎えました。🌟

本日は、「想像し、考え、理解する。という余白を残すこと」についてです。

私は、前回の記事(教典)で、木と「死について」語り合う記事を投稿しました。

それほど長くはない文章だとは思うのですが、実は、2時間ちかくかけて書き上げたものです。

2時間ちかくかけて書き上げたわりには、文章が短いと思いますが、私は書き上げた文章の半分を消しました。


そもそも、「木と語り合う」って、めっちゃ引きません?

めっちゃイタイ奴やん!って思いません?

はぁ?何、ファンタジーの世界に入ってんの?とか

もしかして、本気でサンタクロース信じてる人?とか

もしかして木の職人さん?とか。(職人ではありません(苦笑))


まぁ、ふつーーーーに考えれば、陽か陰でいうなら完全に「陰」の記事なわけですよ。

最初は、この「木と語り合う」ことの説明をつらつらと書いていたわけです。

もちろん、木がしゃべるわけないよ。とか

会話を書いていくうちに、自然と人間とは?みたいな壮大なテーマにまで発展してしまったりとか。

そうなると、もう、最初の主旨から脱線しちゃうんですね。


自分の想いや考えを相手に伝えることは難しいことです。

きっと、noteで発信されてる方はみなさん、感じていることでしょう。

映像やまんがでは、表情で読み取れることでも、文章だけになると、書き手と読み手の受け取り方、感じ方が違う場合が発生する。

だから、書き手は、その齟齬がなるべくないように、細かく説明する。


だけど、あんまり説明ばかりだと、それはそれで面白くないし、双方しんどかったりする。

やっぱり、ある程度、余白を残すことが面白かったりする場合もある。


例えば、名前が「ミノル」という主人公がいたとして、それが男か女かわからない物語り。

途中でわかるのか?最後にわかるのか?最後までわからないのか?

読者は、そこに「想像し、考え、理解する」ことを楽しむわけです。

結果、想像通りだったのか?

まさかの結末だったのか?


私は、前回の記事で、たとえイタイ奴だと思われようと、こいつ危ない奴と思われようと、それはそれで、受けとる人にまかせようと思いました。

それが、正しいとか間違いとかではなく、「それもあり。」いや。「やっぱ、それが普通だよね」っていう、どっちにしても

読んでくれてありがとう🌟


だけは、変わらないんで。







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