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四月はじめに緊急事態宣言が発令された。昨年末から数ヶ月、ルームシェアをしていた友人がタイミングよく、移住予定だった地方に向けて無事に旅立っていった。見送った朝は、暦では<清明>で清明らしい朝だった。
緊急事態宣言が入って数日は、本当に家から出ずにのんびりと家で過ごした。それから、近所の商店街に買い物に出かけた。人はいつもより少なかったけど、お店はほとんどが空いていて、時々豆腐を買う豆腐屋さんも花屋さんも開いていたし、居酒屋がいくつか閉まっていたり、飲食店がテイクアウト対応をしていたりはあったが、そうがらりと変わったという感じではない景色にほっとした。むしろ、別の日に気分転換を兼ね、自転車を漕いで勢いで渋谷まで行ってみた時に、渋谷のほとんどの大型店が閉まり、人が少なく閑散とした景色や、そのあと下北沢に戻っていき、やはり飲食店とスーパー以外の半分以上のお店が閉まり、昼間から閉まったシャッターが並び、空いている飲食店はテイクアウトを呼びかけ、いつも賑やかに人が行き交う道が閑散としているのを見てショックでとても心配を感じた。
それから、しばらく下北沢の親しいお店にテイクアウトに通うようになった。私は仕事はフリーランスで、4月中は仕事も少なくほとんど家におり、面と向かって人と話すことも少なかったので、時々親しいお店に出かけてはテイクアウトをして、ついでにいろいろ話して帰ってくるのはよい気分転換にもなったし、家でいただくテイクアウトも安心して食べられる気持ちのこもったものばかりで、とてもありがたいものだった。
まだ気温はそう高くなかった四月のある日、夕暮れのあとに買い物を兼ね近所に散歩に出かけた。澄んだ空気が感じられ、また歩く人も少なく、たくさんの家から灯がもれ、夕食の香りがして、どこもゆっくりとした時間がお家にあるのかと思うと心を暖かくした。すれ違う買い物や散歩に出かけている人も、みな家族や親しい人たちと歩き、足早に歩く人は誰もいなくて、街にざわついた感じもなかった。ふとそう思うと、いつもの街が急に違って見えてきた。美しい夕暮れの後、夜を迎えはじめた空の下で、人々が穏やかに暮らし家族や親しい人たちと家での時間を過ごしてる、そして緑も草花も、都会でも佇み存在している感覚を感じ、とても心地よくうっとりと味わった。まだ私が子どもだったころ、またはもっと昔、もっと昔の太古にも、人はこうして、地球に包まれて、日々を暮らしてく。または地球のなかに家があり暮らしてく…、こんな感覚なんだ、と思った。
自粛期間中、友人たち何人からnetflixではじまったアニメ「ミッドナイトゴスペル」がいいと聞き、今まであまりそういうサービスを利用してこなかったのでしばらく渋ったのだけど、やはり観たい内容で観はじめたらとても面白かった。(それについては観た人で感想をやり取りしたい)「ミッドナイトゴスペル」では、瞑想を勧めていて、ネットを介して日々やり取りしていた友人とzoomでヴィパサナー瞑想をしようとなり、瞑想を週に一度何度か一緒にしてみた。そのうち本部の日本ヴィパサナー協会が週末にzoomで瞑想を呼びかけそれにも何度か参加した。zoomがあっと言う間に100名になる様子には驚いた。なかなか自分だけで自宅で1時間の瞑想を集中してできないし、zoomとはいえ10日間座った瞑想ルームが映り、またその部屋で瞑想に参加するような感覚で家で瞑想をできた機会は、集中もできとても素晴らしかった。また今ならだからこそ派生した試みなんだな、とも思った。
また私が運営にも関わる下北沢の古本カフェバー「気流舎」のzoomイベントで「ミッドナイトゴスペル」についての話になり、同じnetflixで観れる「ラム・ダス ー最期を生きるー」がとてもいいと聞き、観てみたら本当によかった。脳卒中で身体が不自由になりマウイで最後の時間を過ごすラム・ダスが、動かない身体と向き合う時間も贈り物で学びの機会と受けとめ、日々を送る様子が映る。そこから発せられるメッセージがとても素晴らしかった。グルであるマハラジにラム・ダスが若い時に出会った時、その無条件の愛に「ただいま(I’m home)」と言う自分に気づく。そして、最期を迎えたラム・ダスは、homeとは自分の中にあることで「I'm loving awareness(自分は愛に溢れた存在だと認識すること)」で意識のベールを抜ける、と。そして、親しい人たちに支えられ、マウイの豊かな自然とつながって、死までの過ごす様子にも私はとても救われた。死とはこんなに穏やかでいいものかと。
そして、自粛期間中に続けた瞑想は、だんだんと深い気づきの機会となった。自分の家の自室で座っていると、自分が今いる空間〝家・home″から、外へ感覚が伸びていく感じを持った。〝自分の内側・home″から、外へ感覚が伸びている感覚とも言える。この感覚は、ヴィパサナーのセンターでの瞑想の際などにはあったように思うが、自分の家で暮らす場所でははじめて得られた感覚のように感じた。この自粛期間だからこそ、私は得られたことにに思う。そして、私は母が残したこの家がとても安心できる空間で守られていることも感じ、それにも深く感謝を持った。この感覚を忘れずに、自分を家をhomeと向き合い続けられたらと思った。
緊急事態宣言が開けて、zoomでしか会えてなかった友人たちと下北沢で会って飲んだ。生ビールを飲んだ。美味しかった。人も生で会うとやっぱり違うんだと思った。自粛期間中に海外とのzoomにも参加した。そこでメインで話すアメリカ人と日本人の二人が話していて、通訳も入っていたが、日本人の人が「直で会っている時は相手の話すこと(英語)がわかるのに、zoomだとわからなくなる」と言っていて、私もそれはよくわかる感覚で頷いた。私も英語がぜんぜん得意でないけど、同じ人と何回も会ったり話しているとフィーリングも含めて、だんだんわかるようになってくる。それって、言葉以上のなにかが伝わりあっているってことだと思う。私たちの感覚は、便利さの中で伸びた部分もある。ネットやSNSのおかげでコロナで起きた世界中のことを知り、つながることができた。アメリカのフロイドさんが白人警察官に拘束され亡くなった事件からはじまった問題もさまざまな情報があっという間に世界中に流れた。でも、いろんな情報が溢れて、なにが自分自身の感覚がわからなくなる感覚もある。自分自身の、homeからの、今の感覚を大事に、そこから世界を感じるようにしていきたい。都会でも、田舎でも、世界中のどこでも。そうあれたら、そうあれるのではと感じた。あ、それって、be here now…?!