【掌編小説|Reflection】はじまり
子供たちに帰る時刻を知らせるメロディとともに落ちていく夕陽は、山の向こう側に隠れる前にいっそう眩しく光ってこの窓を照らした。それはフィナーレに相応しく、この空間に散らばった様々な記憶の欠片がきらきらと輝いていた。
それは新緑の季節。まだ梅雨は迎えていないはずなのに、陽射しだけは真夏のようだった。この部屋の壁には、この窓から見える港を描いた絵がかけられていて、室内には男が一人、本当の窓から、本当の港をぼうっと眺めていた。
開け放されたままだった入り口は、来訪の音を鳴らさない。
「……こんにちは」
背後から聞こえた声で初めて、男は客の存在に気づく。
「いま、やってますか?」
「ああ、すみません。やってます。どうぞどうぞ」
ゆっくり見ていってください、と男は告げる。若い客は壁にかかった絵を眺めたり、外を眺めたりしながら、しばらくの時間は静かに過ごしていた。しかし、とあるTシャツに描かれた絵を見て立ち止まる。
「あの」
「はい」
「なんでタコなんですか?」
このシャツも、この展覧会のポストカードも。と小さなつぶやき。それに男は、ああ、と答える。
「あの、今年の芸術祭のポスターわかります?」
「あ、はい、黒いやつ」
「なんか3種類くらいあるんですけど、そのうちの1つにタコがいたのでタコの絵を描こうと思った、みたいなことで」
答えになっているような、なっていないような理由に客は可笑しそうに笑った。
「……なんでタコだったんですかね、そっちも」
実際のところ客もその答えはどうでも良かったのだろうけれど、空気が緩んだ瞬間だった。
「実はわたし、あなたたちの展覧会が終わったらこの場所でカフェやるんです。その芸術祭の期間中」
客はそう言ってまたTシャツを眺めながら悪戯っぽくつぶやいた。
「タコ使ったメニュー、なんか出来るかな」
結局のところ、この空間で本物のタコが調理されることは無かったのだけど。
娘時代を思い出して微笑むおばあさんが来てくれたのは夏の頃だっただろうか。今もこの島で海は身近なものに違いないけれど、かつては向こうの小さな島まで泳いで行ったのだとか、あそこからあそこまで渡し舟を漕いでいったとかいう話を聞くにつけ、フェリー会社が運営する船に乗る、みたいなことではない、もっとずっと、海のことを知っている、と言える距離の近さがそこにはあったように思われた。
東京から来た男の子たちなんか全然漕がなくてね、と、彼女は茶目っ気のある表情を見せた。代わりに自分がその舟を漕いだのだと教えてくれたその顔は上品でありながらもおてんばで、相反するようなその印象は、それでも矛盾なく彼女の中に同居していた。
そんな彼女は、かつて祭りの巫女をした事もあったらしい。そのエピソードは、ここで働いている、今年の祭りで巫女をやる若い女性との共通の話題となった。同じ島の中で、何十年もの時を経てなお続いているものが、そこにはあった。
それから。
数え切れないくらい、ここでは、様々な音がした。記憶というのは目に見える景色の事だけではないのだということを、思う。
ちいさなこどもの泣き声や、レコードから流れるBGM。おにごっこにかくれんぼ。本のページをめくる音、コーヒーを挽く機械音。水道から滴が落ちた音とか、風にはためく旗、女の子たちがくすくす笑う声、食器を置く音、そうめんをすする音、ぴこぴこ鳴る靴、海に向かって歌う声。
そして、いってらっしゃいと、いってきます。
ただいまと、おかえり。
ここは、そんなことばたちが、交わされる場所だった。
船の汽笛が聞こえる。
夕陽が沈む。
そして、夜の帳という幕が下りて、記憶の欠片たちはまた眠りにつくのだった。
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