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「推し」の閉塞性 駈込み訴えから

推しという言葉の不便さについて語りたい。

太宰の『駈込み訴え』の感想をネットで流し見ていたところ、「キリストはユダにとっての推しだった」というような意見が多々あった。そう言われると確かにユダはキリストを推しているし、作品全体を通してXに投稿されたメンヘラの長文っぽい。

推しやメンヘラというような表現は自分の中には絶対にないので、分かりやすく端的に表す現代風な美を感じる。何様という感じの評ですが。

妙に納得したけれど、一度落ち着いて考えてみると、「推し」という単語があまりにも漠然としていてよく分からない。単に駈込み訴えはかなり好きな作品だという私事から、推しだメンヘラだという言葉で片付けられたくないだけだったりもする。

それなので記念すべき初投稿、推しという言葉の持つ曖昧さについて語りたい。

推しやメンヘラという言葉は、明らかに最近生まれたものですよね。多くの人からの共感を得るために生まれ、分かりやすい言葉で片付けて共通認識を図るために使われる。言葉の意味を説明できないという事実が、さも複雑で深い意味があることを裏付けていると思われがち。

『駈込み訴え』の面白さを語るうえで、ユダの人間性にレッテルを貼る必要はないと思う。推し、メンヘラ、確かにそうだけれど、『駈込み訴え』の面白さは、推しに対する激情に同意することではないと思う。楽しみ方いろいろですが。
 
私の思う『駈込み訴え』の面白さは、自分の中のユダ及びキリストという概念と、作中で語られる二人の気質とのギャップ、そしてイエスを裏切るに際して、深く葛藤し良心を苛んだユダが本当に存在したと思わせるような文章。ここにあると思う。あれなんか鼻につく文章しか書けない……

そもそも「推し」には好感情しか含まれず、「メンヘラ」からは相手の心境を慮ろうとしない自己中心的な人間が想起される。そのどちらも駈込み訴えのユダとキリストを的確に表せているとは思えない。
 
そうは言っても、どちらの言葉にももっと複雑な意味がある! と思う気持ちは凄くよく分かる。けれどもその複雑な感情を表現しきれないくらいには、推しという言葉はあまりにも抽象的すぎるように感じる。

「推し」に絞って考えるけれど、何かを推しであると表現した時に、聞き手側は「ああ。あの人に対する私のあの感情か」という風に、自分の経験に変換して飲み込むことしかできない。

そうやって、どの単語も若干のズレを伴いながら伝達されているのかもしれないが、個人の経験によって認識に齟齬が生じるような単語が定義に近いとは言えない。推しの一言で片付けたせいで、自分の感情をそのまま伝えられない時があるような気がする。意外と、同じものを見ているようで違うものしか見ることができない。

先ほど推しは共通認識を図るための言葉だと書いたが、共通認識を図ったように見せかけられる言葉なのではないか、とも思う。二者間あるいは多数相手に共通の理解が存在しているようでいて、その実各人が固有の理解しか持ち得ない。

これが「推し」の持つ曖昧さの原因ではないか。

まあでもだからといって、誰々が超好きで生きる気力をもらえる、という類の独白を切に語られても鬱陶しくて聞いていられないですよね。それなら「推し」で片付けてもらった方が漫然とよく分かる。

ユダはイエス本人を信仰してたんだろうな。それすなわち推し……

簡潔であって誰の中にも燻る想いを呼び起こしてくれる「推し」という言葉は、乱用されるだけあって中々具合の良い言葉なのかもしれないです。

こうして新しい言葉が生まれ、新たな文学に繋がるんだろうなと思いつつ、簡単な言葉で一纏めにされることへの悔しさを感じます。

推し……っ

 

 


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