「推し」の閉塞性 駈込み訴えから
推しという言葉の不便さについて語りたい。
太宰の『駈込み訴え』の感想をネットで流し見ていたところ、「キリストはユダにとっての推しだった」というような意見が多々あった。そう言われると確かにユダはキリストを推しているし、作品全体を通してXに投稿されたメンヘラの長文っぽい。
推しやメンヘラというような表現は自分の中には絶対にないので、分かりやすく端的に表す現代風な美を感じる。何様という感じの評ですが。
妙に納得したけれど、一度落ち着いて考えてみると、「推し」という単語があまり