東北大震災 その2
さてここから私の体験です。
東北大震災の後、しばらくは東京からは外国人が驚くほどいなくなっていました。放射能が怖いという気持ちは私にもよくわかったので、私自身はそういう東京から避難した人に対してとやかく言うつもりは全くありませんでした。
後から分かった事ですが、外国大使館の人はほぼ全員東京から非難していたようです。確かめた分けではないので、自信はありませんが、アメリカ大使館は沖縄に非難したとか。唯一、当時たまたま取引のあったイラク大使館(領事館だったかもしれません)の大使は東京に残っておられて、輸出書類の承認をもらいに行ったとき、”今、東京に残っている大使館員は私くらいだ”、と半分自慢気に言っておられて事を思い出します。
震災の数週間後に、海外出張で地下鉄大門駅から成田空港に向かっていた時です。(地下鉄大門から成田空港まで、浅草線から京成成田線に乗り換え無ししで、直通で行けるし意外と早いので便利に使っていました。)
大門駅のプラットホームに降りるエレベータで、元気にじゃれあう二人の小さいお子さん(多分小学校低学年の男の子)を連れた中年のおかあさんと、おそらくはそのおじいさん、と乗り合わせました。
このご家族も故郷の国に帰るのだろうなあと、”Are you going home?"、とそのお母さんに話かけました。 するとおかあさんは、一瞬ムッとしたきつい目線で、”NO! We live in Tokyo. Tokyo is my home, now"と言ってくれたのです。
私にしたら、決して逃げる家族を非難する気持ちなど毛頭なく、”こんな小さいお子さんを連れていたら、そりゃあ故国に帰りたいですよね”、という気持ちでした。
でもそのおかあさんは、毅然として、”私たちは逃げないし、東京を捨てません”、と言ってくださったように私には思え、なにか心が温かくなったように感じました。
その後、おかあさんはニッコリ笑い、子供たちを易しい目で見なが、”We're going to Mount Fuji." 「富士山に行くのよ」、と楽しそうに言ってくれました。
最後に、"Although I'm a Scottish,,,,," とほんの少しだけ、一瞬だけ寂しそうな目をしたのが印象的でした。おそらく、ふるさとはスコットランドだけど、私達家族はこれからもここ東京で生きていくんだ、とご自分に言い聞かせていたように感じました。
そのご家族のその後は全く分かりませんし、おかあさんとおじいさん(多分)がどんな仕事をされていたのかもわかりません。もしかして、いやおそらく、今は故郷のスコットランドに戻っておられるのかもしれません。しかし、わずか数分間、一言二言だけでの出会いでしたが、私には忘れようとしても忘れられない思い出でです。
東京を愛し、日本を愛してくれているそんな海外から来てくださっている人もいるなか、肝心の私達が日本が日本でなくなるのをだまって見過ごすわけにはいかない、と時々この体験を思い出し、また学生諸君に伝えるようにしています。
ここからは、おそらくみなさんが、こんな大震災のときにお前は何をやっていたんだ、とお叱りを受けるのを覚悟で、話をします。
大好きだった茨城のゴルフ場の支配人が、”お客さんが来なくて困っている”、との話を漏れ聞いて、友人とそのゴルフ場に行きました。まだガソリンは、一回20リットルの配給制限だったため、ガソリンスタンド2軒に数時間並び、合計40リットルいれて準備しました。
出発したのは、閉鎖されていた東北道が一般車も通れるようになった直後だったと思います。都内から東北道を走ると、私達と同じ下りを走っていたのは ”XXXX県 救援物質輸送中”と垂れ幕をつけたトラックだけでした。のぼり車線には、たぶん福島から東京に戻る途中であろう、特殊消防車くらいで、一般車両はほとんど見かけませんでした。たぶんその消防車は日本にも数少ない、高所消火ができる車両だったと思います。そしてその特殊車両の出動を要請したのは、当時の石原都知事だったと記憶します。
私と友人は、大好きなゴルフ場に行き、少しでも支援できれば、との思いでした。救援活動をされている車両の邪魔をしてやろう、などとは夢にも思わず、車を運転しながら、”救援活動ご苦労様です”と心の中で手を合わせたのは偽らざる心境でした。
とにかく東北道は異常なほどすいていて、普段の半分くらいの時間でゴルフ場に到着。ゴルフ場のみなさんは、笑顔で歓迎してくださいましたが、立派だったレストランは天井が落ちて封鎖されており、食事は別室で頂きました。また宿泊施設は、幸い無事でゆっくりと露天風呂も満喫し、一泊できました。
残念なのはそのゴルフ場は、その後どうしてもお客さんが戻らず、数年前に廃業したと聞きました。仮にまだ営業されているのなら、年に一度か二度は、また回ってみたいゴルフ場だったので残念でなりません。
ちなみに私は反原発派ではありません。また、福島第一原発の原子炉はGEの設計した欠陥炉だから事故が起こったのだ、という擁護派にも組しません。GE製で問題ありと思ったのなら、原子炉を建設するときに主張しろと、と言いたくなります。
これは余談になりますが、以前は著作を読んでいた、高山正之氏も、この論者だったと思います。同士のある評論を聞き、やっぱり評論家と言われる人達は、何かを自分ではできないから、しょうがなしに自分のできないことを評論しているだけの人達だ、と思い、以来、同士の著作からは遠ざかりネットの配信番組も見なくなりました。(同氏のファンのみなさん、申し訳ありません。少なくとも同士の著作は10冊程度は購入したので許してください。)
また虎ノ門ニュースや朝8で人気の、武田邦彦先生の原発論にも、私は納得がいきません。先生は、福島第1原発は地震ではなく津波で事故を起こしたのだ、という節は間違いであり、真の原因は地震である、と主張されていると理解しています。私なりに先生の言い分を解釈すると、福島第1原発の設計は東北震災の地震に耐えられる設計ではなかった、という事かと考えます。
吉田所長他現場のみなさんの証言によると、停電で冷却水が循環できなくなった、それは自家発電機も止まったから、そしてその理由は津波で発電設備がショートしたから、というプロセスだった、と私は考えます。ただし少なくとも武田先生はいわゆる評論家ではなく、現場をしる技術者(ご本人は科学者と自称されているようですが)として尊敬しております。
最後に、私自身は、今の技術では原発は必要悪と考えます。そして事故はある、という前提で、あらゆる事態(関係者は”想定外の事態”、といいますが、想定はいくらでもできます)に備えて、原子炉周辺は緩衝地帯として、宿泊施設やスポーツ、娯楽施設にする。
そして、ずいぶん乱暴な論と承知しますが、各電力会社、原子炉設計、施工会社、さらには政府首脳のご家族はその原子炉近くにお住まいいただきたい。またその原子炉の発電を受ける受益者は、年に何回かは原子炉近くの観光地や保養施設に宿泊する、という事を義務つけたらどうかと考えます。受益者だけ何もせず楽をして電気を買う、のではいかにも地元住民の不安とご苦労を考えると不公平と考えますが、いかがでしょうか?それは筋違いだ、とのご指摘もあるように思いますが。
今までの札びらで地元住民の横っ面をたたくような説得方法はもう通用しないのでは、と思うので、こんな乱暴な事を考えました。
また希望する地元住民には集団での引っ越しを満額補償する。どうしても残りたい住民には、緊急避難、避難先での平穏な住居と環境の整備、そのための対策積立金(今の再エネ賦課金など全部止めて、原発事故対策費に回すべきと考えます)を準備する。
核廃棄物処理と保存の安全性を費用をかけて実験、立証することも肝要です。原子炉発電の費用は、そうしたもろもろの全ての費用を合算して計算するべきです。それでも今の太陽光パネルに比べれば、はるかに自然破壊も自然への影響も少ない、かつ安価で安定したクリーンなエネルギーではないでしょうか?
そのうえで、原子核融合炉が実用化されるまでは、原発を再稼働する。さらに安全性の各段に強化された新型小型原子炉の開発と建設を再稼働させるべき、と私は考えます。
今の原子炉は、核分裂反応で、一旦反応が始まると抑制が困難です。一方で、核融合炉は、反応を保持するのが極めて難しく何かしらの問題がるとすぐに反応が止まる、といういわゆるFail Safeな反応です。また放射性物質もほとんど発生しないとされていますが、トリチュウムだけは防げないようです。要するに、太陽と同じ反応ということです。
原子炉のド素人で、かつ放射性物質の基礎知識も読みかじっただけの機械技術者の端くれですが、こんな事を考えています。
最後までこの駄文を読んでいただき、ありがとうございます。もう一度、高山正之氏、武田邦彦先生のファンのみなさま、両氏を批判してしまい、申し訳ありませんでした。