母の仕事
私は自分から「です・ます調」を選ぶことがまずない。
手紙やメールのやり取り以外では、ほとんど「だ・である調」を貫いている。無意識の内に。
学校の授業などで、何人かの感想文を匿名で共有することも多いが、毎回「だ・である調」で書かれているのは一つだけ。
そしてそれは必ず、私の書いた愛想のかけらもない文章だ。
「あぁ、この書き方はマイノリティなんだ」と、上品な言葉遣いに並ぶ、尖った物言いを見つける度に思っている。
文章から人に「敬意のない人」と思われるのは嫌で、「です・ます調」で書こうと必死に努力したこともあった。
細心の注意を払って、すべての意識を丁寧な言葉を並べることに注ぐ。
やってみたらできることだった。
だが、それには莫大な不快感が纏わりつく。
人の服を借りて街を歩くときに、「これ、私の趣味ではないのです」と叫びたくなる気持ち悪さ。
さらに「です・ます調」は厄介なことに、感性も鈍らせてき、私の文章なのか読んでも区別できなくなる。
そのくらい、文体には威力があって、私はその威力に縛られて今も綴っている。
ところで、いつから「だ・である調」でないと落ち着かない人になったのか。
気になって開いた小学校の卒業文集には、「私は体育祭をがんばりました」という可愛らしい作文が並ぶ中、「私にはたくさんの力がある。」という一文から始まるものが紛れていた。
う〜ん、なかなかの筋金入りの「だ・である調」信者だ。
……というか12歳の私よ、何なんだその強い思想は。
私が「だ・である調」に取り憑かれるきっかけに、思い当たるものが一つだけある。
私の母の仕事だ。
母は、大学受験に奮闘する高校生たちが書いた小論文を添削する仕事を在宅でしていた。
母の使う万年筆の音と、除光液の匂いが好きで、お絵描きも宿題も読書も、仕事中の母のそばでしていたのを覚えている。
小学校中学年くらいになったら漢字も大体読めるようになり、横から高校生の本気の小論文を一緒に読んでいた。
その時の興奮と言ったらもう。
多分、初めて雪を見た子どもよりも目を輝かせていたと思う。
その小論文の内容は「優先座席の必要性」だった。
優先座席について賛成か反対か自分の意見を明確にし、その理由を論理的に書かれていた見事さに、児童文学しか知らなかった私は感動した。
優先座席はあって当たり前だと、疑ったことすらなかった私にとって、無くすべきだと主張する人の存在を知ることは、衝撃的だった。
そしてその衝撃とともに、私は気がついたのだ。
すべての文章が「だ・である調」で書かれていたことに。
「だ・である調」に間近で触れる機会が少なかったため、端的かつ的確な印象を与える「だ・である調」の影響力は凄まじかった。
まぁ、「かっこいいなぁ」と憧れを強く抱いたのだろう。
小学校中学年はちょうど、テスト問題が「解いてください」という低姿勢なお願いから、「解け」というぶっきらぼうな要求に移行する時期。
周りの生徒が嫌がっている中、私は大人の文章に近づいた気がして、何度も「解け」という簡潔な二文字をうっとりと眺めていた。
そして今では無意識に「だ・である調」を使っている。
なんだか尊敬の対象だった文体が、私の言葉として馴染み深くなっているのがくすぐったい。
こうやって、過去の一つの瞬間について丁寧に切り取ると、今の自分をつくる要素や譲れないものなどがよく浮かんでくる。
当たり前すぎて忘れやすい過去の自分たちの存在を、小さな切り口から集めて、かつて歩いた道を細やかに再現する。
私はこの動作が割と好きだ。
そして、この動作が好きなことはすぐに忘れるだろう。
だから今は、私がこの動作を思い出すよすがとなるものを、全力で振りまいていたい。
ちなみに、「だ・である調」の魅力を間接的に教えてくれた母は、私が小学生の内に添削の仕事を辞めた。
小論文を読むことは、ただの読者の私にとっては娯楽だったが、責任のある添削者の母にとっては苦行だったらしい。
何度か「辞めないでよ〜」と言ってみたが、その時の母の意思と添削への嫌悪感は強かった。
そして今の私は小学生の記憶を綴りながら、また小論文を読む愉しさを味わいたくなっている。
あぁ読みたい。すごく「優先座席の必要性」について読んで考えたい。
私も大人になったら添削の仕事をしてみようかな。と、私の将来の道がまた増えたのはいいものの……。
現在私は高校2年生。
添削する前に、添削される立場にならなくては。
よし、とびっきりの小論文を愛想のない「だ・である調」で書いてやろう。