【人相学】『武者鑑』土肥次郎實平/實平妻/板額女/浅利與一義遠 2 mominaina 2024年2月11日 22:42 出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者鑑 一名人相合 南伝二』土肥次郎とひのじらう 實平さねひら実平さねひらは、鎌倉かまくら草創さう/\の功臣こうしんにて、殊ことに 智勇ちゆうに長ちやうじ、一いちの谷たににては、其その 正面せううめんを攻せむるに、軍功ぐんこう肩かたを並ならぶるものなし。惜をしむべし。其その子こ 遠平とをひら、其その子こ 維平これひらの時とき、和田わだ義盛よしもりの 叛逆ほんぎやくに同心どうじんして、生捕いけどられ、建暦けんりやく三年 閏うるふ九月、誅ちうせられ、流石さすがの名家めいか 一時いちじに退轉たいてんす。実平さねひらは、體たい肥満ひまんすといへど、久ひさしく坐ざして、不動どうぜず、眼まなこに 神光しんくわうありて、眉まゆ 柳やなぎの葉はの垂たるゝに似にたり。是これ、勇ゆうにして 信義しんぎあるの 相さうなりといへど、纔わづか三代だいにして 亡ほろびたり。實平妻さねひらのつま実平さねひらの妻つまは、才知さいち 世よに勝すぐれし者ものにてありけるが、頼朝よりともの相さうを視みて、是これ 天下てんがの 主あるじとなり給ふ人ひとなりとて、良人おつとをすゝめて 御味方みかたをさせしに、石橋いしばし山やまの 軍いくさ破やぶれて、土肥どひの杉山すぎやまに隠かくれ給ふと聞きゝ、郎黨らうだうを一人ひとり出家しゆつけ 做なさしめ、是これに日々ひゞの 食物しよくもつを贈おくらせしゆへに、頼朝よりもとも 主従しゆ●●う 七騎きの 餓死がしを免まぬがれしとかや。其その 以前いぜん、此この妻つまを 実平さねひらの 娶めとる時とき、一族いちぞく 其その 醜みにくき を 聞きゝ傳つたへて、是これを諫いさむるに、実平さねひら 笑わらつて、人ひとは 其その 顔かほを論ろんず。我われは、其その心こゝろを 論ろんずとて、竟つひに 妻女ざいぢよとはなせしと言いへり。賞しやうすべし。此この 妻女さいぢよ、其その 顔かほはいざしらず、意中こゝろは 呉湖ごこの清きよきに似にたりし。板額女はんがくぢよ板額はんがくは、越後えちごの城じやうの 小太郎こたらう 資盛すけもりの 姨母おば也。其その 面貌めんぼうの 醜みにくきこと言いふべからず。故ゆへに、縁えんなくして、既すでに 三十路みそぢの上うへを越こへしが、力量りきりやうは 人ひとに勝すぐれて、善よく 強弓がうきうをひく。資盛すけもり、謀叛むほんの時とき、軍師ぐんしとなりて、鳥坂とりさかの城しろに篭こもりて、寄手よせてを 度々たび/\悩なやませしが、藤沢ふぢさわ清親きよちかに 両股りやうもゝを射いぬかれて、生捕いけどりとなり、鎌倉かまくらへ引ひかれしが、浅利あさりの 与一よいちに嫁かして、二子し一女ぢよを出産うむ。寔まことに、古今こゝん未曽有みぞうの勇婦ゆうふなれど、敵方てきがたの 将しやうに嫁かして耻はづる色いろなきはなんぞや。面かほと 意中こゝろと 同おなじくして論ろんずるに 所ところなし。唯たゞ、勇ゆうを以もてて高名かうめいなる而已のみ。浅利あさり 與一よいち 義遠よしとお義遠よしとをは、新羅しんら三郎さぶらうの末孫ばつそんにして、世々よゝ 甲斐国かひのくにに 居住きよぢうなすが、義経よしつねの手てに 属ぞくして、一谷いちのたにの 軍いくさにも 大功たいこうあり。後のち、二代にだい将軍しやうぐんの時とき、城じやうの 小太郎こたらう 叛逆ほんぎゃくせしときも、討手うつてに向むかつて功こうありけるが、彼かの 板額はんがく女の 醜みにくきを 不言いはず。斯かくる 勇婦ゆうふの腹はらには勇士ゆうしの生うまるゝものとて、功こうに換かへて、板額はんがくを 申もふし 乞こひ、妻つまとなせし人ひとなり。義遠よしとをは、當門むかふばの二●にまい 大おほいにして、斉ひとしく 明あきらかなり。是これ、名なを四方しはうに揚あぐるの相さうといへり。『武者鑑』の人物一覧はこちら → 【人相学】『武者鑑』人物まとめ 👀筆者注 ●は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖 ダウンロード copy #古文 #古文書 #人相 #人相学 #武者鑑 #土肥実平 #板額御前 #浅利義遠 #土肥の女房 2