【京都】三十三間堂後堂之図
京都東山にある天台宗寺院 蓮華王院の本堂、通称「三十三間堂」と呼ばれる建物です。季節は新緑でしょうか。雲ひとつなく晴れ渡る空と、広々とした空間がのびのびとして、気持ちがいい一枚です。
◇
三十三間堂という名前は、建物の桁行が三十三間あること、また、内陣(仏像を安置する空間)の柱が三十三本あることから付いたそうです。
そもそも「三十三」という数字は、観音菩薩に縁のある数字で、建物の長さ三十三間、内陣の柱三十三本は、観音菩薩にあやかって設計されています。
観音菩薩は、衆生をあまねく救うために三十三の姿形に変えて現れるとされ、これを普門示現というそうです。例えば、法華経『観世音菩薩普門品第二十五』には、観音菩薩の三十三の姿が次のように記されています。
📖
蓮華王院は、長寛二年(1164年)に、後白河法皇の勅を受けた平清盛によって創建されました。寺院の名前は、後白河法皇の前世が熊野山の蓮華坊という僧であったことに由来するそうです。
長寛二年というと、保元の乱(1156年)と平治の乱(1160年)からまだ間もない時期で、皇位継承や権力争いで混乱していました。(保元の乱は後白河天皇 vs 崇徳上皇、平治の乱は後白河上皇 vs 二条天皇)
一方、平治の乱の翌年に、後白河法皇と 平滋子 (平清盛の妻 時子の異母妹)のあいだに第七皇子が生まれています。後の高倉天皇です。
平家の血筋から将来の天皇候補が生まれたのですから、清盛にとって絶好のチャンスです。後白河法皇に忠誠を示し、自身の権力と財力を誇示するため、五重塔も備えた壮麗なる寺院を造営しました。その本堂が三十三間堂です。
蓮華王院の創建から四年後、清盛の義甥は高倉天皇に即位し、さらにその四年後、清盛の娘 徳子が中宮に迎えられ、後の安徳天皇を出産します。平家一門が栄華をきわめた時代です。
◇
しかし、残念なことに、建長元年(1249年)の大火で、蓮華王院はすべてを焼失し、文永三年(1266年)に後嵯峨上皇によって三十三間堂のみ再建された状態となりました。
それから三百年ほどの時が流れ、桃山時代に入り、豊臣秀吉によって抜本的な整備が始まります。
文禄四年(1595年)三十三間堂のとなりに秀吉発願の大仏(盧舎那仏)を安置する方広寺が造営されます。三十三間堂は、方広寺の境内に組み込まれる形で伽藍が形成されました。
上図は方広寺を描いたものです。大仏殿の右に三十三間堂が見えます。手前の鴨川に架かる橋は、左が正面橋、右が七条橋です。
◇
その方広寺も、寛政十年(1798年)旧暦七月一日、大仏殿に落ちた雷がもとで火災が発生し、ほぼすべての建物を焼失します。ただひとつ、奇跡的に三十三間堂だけが延焼を免れました。
その後、昭和ニ十七年(1952年)に、三十三間堂は国宝に指定され、現在に至ります。後嵯峨上皇による再建から七百五十年あまり、貞信の絵を眺めながら長い時間が流れてきたことをあらためて感じました。
京の 京の 大仏さんは 天火で焼ぁけてな
三十三間堂が 焼け残った
ありゃドンドンドン
こりゃドンドンドン
参考:国立国会図書館デジタルコレクション『熊野の史蹟と名勝』『浮世絵大鏡(浮繪京都三十三軒堂)』『諸国童謡大全』
蓮華王院Webサイト「歴史」「仏像」
文化庁国指定文化財等データベース「蓮華王院本堂(三十三間堂)」
筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖