『一休骸骨』は、人間の振る舞いを骸骨として描くことで、生きることと死ぬことは表と裏のように切り離せない関係にあること(生死一如)を説いた作品です。著者は一休禅師とされています。
九年まで座禅するこそ地獄なれ、虚空の土となれるその身を
※ 挿絵の人物は、達磨大師。嵩山少林寺で壁に向かって九年間 坐禅を続けたというエピソードで知られています。
※ 「こくうのつち」は、虚空の土。
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薄墨に書く玉梓の内にこそ、万法とも見ゆるなるべし。それ初心の時、座禅を 専らになすべし。諸々国土に生れくるもの 一度虚しくならずといふ事なし。それ我が身も未だなり。天地国土 本来の面目も未だなり。皆是、虚空より来るなり。形なき故に、即ち是を 仏とはいふなり。仏心とも、心仏とも、法心とも、仏祖とも、神とも、諸々の名は、皆是こなたより名付くるなり。
※ 「うすずみ」は、薄墨。
※ 「たまづさ」は、手紙のこと。玉梓。
※ 「万法」は、仏語。あらゆる法則のこと。
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かようの事を知らずんば、忽ち 地獄に 入るなり。まだ良き人の 示しによりて、二度 帰らざるは 冥途逆修 の分かれ、親しき浮気も 流転三界はいよいよ 物憂く心ざして、故郷を足に 任せて浮かれ出で、何処をさすともなく行く程に、知らぬ野原に入りかかり、袖も絞るる 藤衣、日も夕暮れになりぬれば、しばし仮寝の 草枕 結ぶ 頼りもなきままに、彼方此方を見回せば、道より遥かに引き入りて、山元近く 三昧原とおぼしくて、墓とも 其数 あまたある中に、殊の外に 哀れなる 骸骨、堂の後ろより立出て曰く、
※ 「冥途」は、仏語。死者が赴く迷いの世界、または、そこへたどりつく道程のこと。
※ 「逆修」は、仏語。修行にそむくこと、迷見にとらわれて真理に遠ざかること。
※ 「るてん三界」は、流転三界。 仏語。生あるものは三界に生死を繰り返して、迷い続けるということ。三界流転。
※ 「三界」は、一切衆生が、生まれ、また死んで往来する世界。欲界・色界・無色界の三つの世界のこと。
※ 「そでもしぼる」は、袖も絞る。涙でぬれた袖を絞る、ひどく悲しんで泣く様子の喩え。袖を絞る。
※ 「ふじころも」は、藤衣。藤づるの皮の繊維で織った粗末な衣服のこと。
※ 「くさまくらむすぶたより」の「むすぶ」は、草枕を結ぶと結ぶ頼りの掛詞になっています。
※ 「くさまくら」は、わびしい旅寝の意。
※ 「さんまい原」は、三昧原。仏語で、火葬場、墓地のこと。三昧場。
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※ 「すみぞめの袖」は、墨染衣の袖のこと。
一切のもの 一度空しくならずといふ事あるべからず。空しくなるを 本分の 所へ 帰るとは云ふなり。壁に向かひて座する時、縁によりて起こる念は 皆 実とにあらず 。
※ 「むなしく」は、空しく。死んでしまうこと。
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それ 五十余年の説法も 皆 実とにあらず。人の心を知らん故なり。かように苦を知る人やあるとて、仏堂に立ち寄りて一夜を送るに、常よりも心細くしてうちぬることなりにける。
暁方になりて、凄しまどろみたる 夢のうちに、堂の 後へ立出れば、骸骨多く群れ居て、その振舞い各々同じからず。たゞ世にある人の如し。あな 不思議の事やと思ひて見る程に、ある骸骨ちら/\と歩み寄りて曰く、
※ 「あか月がた」は、暁方。
※ 「野べ」は、ここでは、火葬場、または、埋葬地のこと。
※ 「かばね」は、屍。死体のこと。
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さて、親しみより 慣れて遊ぶに、日頃 我 人隔てける 心も失せ果てゝ、しかも常に 相伴ひける。骸骨 世捨て法を求むる 心ありて、数多のわかちを尋ね、浅きより深きに入りて、我 心の 源を明らむるに、耳に満てるものは松風の音、実と 遮るものは 桂月の 枕に残る。
※ 「わかち」は、物事の区別、けじめ、思慮のこと。分別。
※ 「けい月」は、桂月は月の別名。(月の中には桂の木が生えているという伝説から)
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そも/\何れの時か、夢の内にのらざる。何れの人か骸骨に非ざるべし。それを五色の皮に 包て持て 扱うほどこそ、男女の色もあれ、息絶へ、身の皮 破れぬれば、その色もなし。上下の姿も分かず、只 今 傅き 弄ぶ皮の下に、この骸骨を 包て打ち立つと 思るて、此 念をよく/\後心すべし。貴きも 賤しきも、老たるも 若きも、さらに変わりなし。只、一大事因縁を 悟る時は、不生不滅の 理 を知るなり。
※ 「上下」は、上衣の肩衣と下衣の袴の上下一式の衣服。裃。
※ 「こうしん」は、後心でしょうか。学問・技芸など、先人のたどった道をあとから進むこと。
※ 「ゐんゑん」は、因縁。
※ 「ふじやうふめつ」は、不生不滅。 仏語。生じることも滅することもなく、常住不変であること。
※ 「なきあとのかたみ」は、亡き後の形見。
※ 「五りん」は、五輪卒都婆。方・円・三角・半月・団(如意珠)の五つの形をつくり、それぞれ地・水・火・風・空の五輪(五大)にあてて、下から積みあげたもの。
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※ 「住よしのまつ」は、住吉の松。摂津国墨江郡一帯にあった松林のこと。
※ 「まどろまで」は、微睡まで。眠らずに。
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※ 「ぢやうごう」は、成功でしょうか。朝廷に寄付をして造宮・造寺などを行った者が、その功によって官位を授けられるもの。
※ 「一大事」は、仏語。仏が衆生救済のためこの世に出現するという重大事。
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※ 「高ね」は、高嶺。
※ 「ふみまよふ」は、踏み迷う。
※ 「うむれし」は、生まれし。
※ 「すつべかり」は、捨つべかり。
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※ 「とりべの」は、鳥辺野。平安時代初期からの京都近郊の葬送地で、化野の露、鳥部山の烟といわれました。
※ 「やまをくり」は、死者を山に葬ること。のべおくり。
※ 「けさみし人」は、今朝見し人。
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※ 「やけばはい」は、焼けば灰。
※ 「うづめばつちと」は、埋めば土と。
※ 「みとせ」は、三歳。
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世の中の定め異なるべし。今日この頃しもかやうの敢無き事のあるべしとは、かねて知らずして驚く人のはかなさよと思ひて、我身のあるべきをとるれければ、ある人申されけるは、この頃は昔に変わりて寺を出、古は道心を起こす人は寺に入しが、今は皆 寺を出るなり。見れば、坊主に知識もなく、座禅を 物憂く思ひ、工夫をなさずして道具を 嗜み 座敷を飾り 、我慢多くして、只 衣を着たるを 名聞にして、衣は 着たるとも、只 取り換へたる在家なるべし。
※ 「あへなき」は、張り合いがなくてがっかりするさま。
※ 「みやうもん」は、名聞。世間での名声や評判、ほまれ。
※ 「ざいけ」は、在家。出家せずに、普通の生活をしながら仏教に帰依すること。
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袈裟衣は着たりとも、衣は 縄となりて身を縛り、袈裟は 黒金の撞木となりて、身を打ち 苛むと見へたり。つら/\生死輪廻のいわれを尋ぬるに、ものゝ 命を殺しては地獄に入、ものを惜しみては餓鬼となり、ものを知らずしては 畜生となり、腹を立てゝは 修羅道に落つ。五戒を保ちては人に生れ、十全を 生じては 天人に生る。此上に四聖あり。これを 加へ 十戒と云ふ。この一念を見るに 形もなし。中間も 住所なく きらい捨つべき 所もなし。大空 雲の如し。水の上の 泡に似たり。
※ 「くろがね」は、鉄の古称。黒金。
※ 「しもく」は、撞木。仏具のひとつ。鐘・鉦・磬を打ち鳴らす丁字形の棒のこと。
※ 「うちさいなむ」は、打ち苛む。
※ 「生死りんゑ」は、生死輪廻。
※ 「五戒」は、仏教で、在家の信者が守るべき五つの 戒め。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒。
※ 「十ぜん」は、十全。欠点がなく、完全であること。
※ 「むまる」は、生る。
※ 「天人」は、仏語。天界に住んでいる衆生、道徳的に前生によい生活をおくった者のこと。
※ 「四聖」は、ここでは、仏界、菩薩界、縁覚界、声聞界の四つを指していると思われます。
※ 「十かい」は、十戒。仏語。沙弥・沙弥尼が守るべき十の 戒め。不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・不塗飾香鬘・不歌舞観聴・不坐高広大牀・不非時食・不蓄金銀宝。
※ 「ちうげん」は、中間。仏語。二つのものの間にあるもののこと。
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只 おこる 所の 念も無きが故に、なす所の万法もなし。念と法とひとつにして空しきなり。人この不信を知らぬなり。例えば、人の父母は 火打ちの如し。金は父、石は母、火は子なり。これを火糞に立てて、薪 油 の縁 尽くる時は 消ゆるなり。父母相遊ぶとき、火の出るがごとし。父母も初めなきが故に、終には火の消ゆる 心に失するなり。空しく虚空より、一切のものを 育み、一切の 色を出す。一切の色をはなてば本分の田地とは云ふなり。一切草木國土の色は 皆虚空より出る故に、仮の 喩えに 本分の田地とは云ふなり。
※ 「ほくそ」は、火糞。ろうそくの燃え殻、または、火の粉。
※ 「はごくみ」は、育み。
※ 「一切草木國土」は、草木国土悉皆成仏のことと思われます。草木や国土のように心をもたないものも仏性があるから成仏できるという意。
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● ● 五十余年の 説法を聞きて、この教えのまゝに 修行せんとすれば、愚鈍 最後に 宣ふやう、始めより終わりに至るまで一字も説かずといひて、かへつて手づから花を差し上げさせ玉ふを、迦葉 微かに笑ひし時、愚鈍の 宣ふやう、我に 正しき法のたゝなる心ありとて、花を許しけるを、如何なる謂れぞとや問ひければ、愚鈍の玉ふやう、我五十余年の 説法は、例へば 幼ひものを抱かんとする時、手の内に物あることを云ひて抱くが如し。我 五十余年の説法は、この迦葉を招くが如し。此 故に、伝へ玉ひし 所の法、かの 幼ひものを抱きとりたる 所なり。しかるに、この花は身をもてなして知るべきにあらず。心にもあらず。口に云ひても知るべからず。此身苦をよく 心得べし。
※ 「ぐどん」は、愚鈍。釈迦の弟子のひとり、周利槃特。生来愚鈍でしたが、釈迦の教えを守りのちに大悟して阿羅漢果を得ました。
※ 「まさしき」は、正しき。事柄の本性にかなっているさま。
※ 「たゝなる心」は、直なる心でしょうか。ありのままという意。
※ 「手づから花をさしあげさせ玉ふ」は、拈華微笑(禅宗において、以心伝心で法を体得する妙を表す語)のエピソードに基づいています。釈迦が 霊鷲山で説法した際、花をひねり大衆に示したところ、誰もその意味が分かりませんでしたが、摩訶迦葉が真意を理解して微笑んだという故事。
※ 「迦葉」は、釈迦の十大弟子のひとり。摩訶迦葉。
※ 「おさあい」は、「幼い」の変化した語。年のゆかない者、子供、幼児。
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物知りたる人とは云はるとも、仏法者とは云ふべからず。此花は 三世の諸仏の世に出、一乗の法とはこの花の事なり。天竺の二十八祖、たうどの六祖よりこの方、本分の田地より外に世の者はなし。一切の者 始めなき故に大といふ。虚空より一切の八博を出すなり。只 春の花の 夏 秋 冬、草木の 色も 虚空よりなすなり。また、四大と云ふは、土水火風の事なり。くことに是を知らず。息は風、温かなるは火、身の潤ひて血気のあるは水、これを焼きも 埋みもすれば 土になり、それも始めなきが故に 留まる者一つもなし。
※ 「 三世の諸仏」は、仏語。過去・現在・未来の三世それぞれに一千ずつ出現する仏。三世諸仏。三世三千仏。
※ 「一乗の法」は、仏語。悟りを開くための唯一の道である一乗真実の教えのこと。主として法華経を指すそうです。一乗法。
※ 「天竺の二十八祖」は、インドで禅の伝灯を伝えたとされる二十八人の祖師のこと。西天二十八祖。
※ 「たうどの六祖」は、唐土の六祖。次のいずれかを指していると思われます。① 唐の時代の僧で禅宗の第六祖 慧能、② 唐の時代の僧で天台宗の中興(第六番目)の祖 湛然、または ③ 達磨・慧可・僧璨・道信・弘忍・慧能の六人の祖師の総称。
※ 「ほんぶんの田地」は、禅問答の「本分の田地」。室町時代に夢窓疎石が書いた『夢中問答集』に「本分の田地」があります。
『夢中問荅集 3巻 [3]』(国立国会図書館デジタルコレクション)
※ 「八しき」は、八識。仏語。唯識宗で説く眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と、末那識・阿頼耶識を加えた総称。
※ 「四大」は、仏語。仏教でこの世の全てを構成する四つの元素。地水火風。
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皆々迷ひの 眼よりは、身は死ねども 魂 死なぬは大なる誤りなり。悟る人の言葉には身も種も一つに死ぬると云ふなり。仏と云ふも、虚空の事なり。天地国土 一切の本分の田地に帰るべし。
一切経、八万法を打ち捨てゝ、此一巻にて御 心 得候べし。大安楽の人に御成候べし。
※ 「一切経」は、仏教の聖典の経・律・論の三蔵の総称。
※ 「八万法」は、八万法蔵。数多くの釈迦の経典のこと。「八万」は八万四千の略。仏教で多数の意を表わす語。
※ 「大安楽」は、仏語。身心脱落して迷悟を離れた境界のこと。
参考:国立国会図書館デジタルコレクション『一休骸骨』(大正13)『一休骸骨』(1----)
筆者注 ● は解読できなかった文字を意味しています。新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖