見出し画像

【古今名婦伝】掃溜お松

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『掃溜お松(古今名婦伝)』

掃溜はきため於松おまつ

しば三田みたつぼね見世みせなり。そのいやしきながら、こゝろきよく、このをんな異名ゐみやう掃溜はきだめまつといふとぞ。

あるとき塵塚ちりづかうたよみたり。これよりして、その一時にたかめづらしきをんななり。

   塵塚ちりづかのちりに まじはる 松虫まつむし
     とゑばすゞしき ものらずや

掃溜お松/塵塚お松 芝三田の遊女
生没年不詳(江戸時代中期)

掃溜はきだめお松は、江戸時代中期を生きた女性です。

しば三田みたの遊女で、掃溜はきだめお松とも、塵塚ちりづかお松とも呼ばれていました。いやしき身ながらも、心清らかでものごし柔らかく、歌にも大変秀でていました。

生没年など詳しいことは分かりませんが、『武江年表』(著者は『江戸名所図会』を刊行した斎藤月岑げっしん)によると、前述の歌が詠まれたのは宝暦年間(1751年~1764年)の事と記されています。

宝暦年間
芝三田(俗称三角)賤妓まつと云者歌を詠。
 ちりづかの塵にまじはる松蟲もこゑはすゞしきものと知らずや
筠庭云、三田のはきだめお松が事は、馬文耕が武野俗談に出たり。此女こゝろざしやさしきものにて、よき人うけ出して伴ひぬといへり。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武江年表 増訂
出典:国立国会図書館デジタルコレクション『歌俳百家伝:貴賤画像

塵塚ちりづかのお松、掃溜はきだめのお松という呼び名は、彼女がいた見世が三田の塵塚ちりづか(ごみを捨てる所)のそばにあったからだといいます。

また、お松という名については、『武野俗談』によると「掃溜女郎の中にては大夫職なりと云心にて松の位の松をとりて名としけるなり」とあり、遊女の最上位である太夫を意味する「まつくらい」からきているそうです。

ここで、お松が暮らした芝三田を見てみましょう。

お松がいたのは「三田の三角」と呼ばれる岡場所です。(岡場所は幕府非公認の私娼街のこと)

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『〔江戸切絵図〕芝高輪辺絵図

場所については、現在の 聖坂ひじりざか の坂下辺り(港区三田三丁目の三叉路)とされることが多いようです。下図で水色の丸で囲んだ所です。現在の地図と比較するには、「三の橋」と「聖坂」を目印にすると分かりやすいと思います。

また、安永九年に出版された『三十三番無陀所』によれば、三角の所在を「芝區三田同朋町」と記載しているので、同朋町が同明町の誤りであれば、水色の丸のすぐ右上にある「三田同明町」かもしれません。

その他にも、水色の丸のすぐ右下にある「横新町」が三角だとする説もあるようです。

お松には、三浦榮次郎という馴染みがありました。榮次郎は、阿波徳島の家臣で、風雅を好み俳諧に長けていました。ゆえに、歌をよくするお松のことが気に入ったのでしょう。

『徒然草』の「おそろしきのししも「ふすの床」と言へばやさしくなりぬ」と「多くて見苦しからぬは 文車ふぐるまふみ ちりづかのちり」いう言葉を引用し、掃溜お松のことを「ちり塚お松と唱へん」と言ったそうです。

そして、お松の袖留そでとめの儀には大金を出したりするなど、様々な援助を施し、三田の三角は小さい岡場所ながらも、お松は華やかな全盛をほこったそうです。

蛇足ながら、前述の地図に阿波藩邸を探してみると、なんと三角のすぐそばに松平阿波守の屋敷がありました。水色の丸の少し上、緑色の線で囲った所です。

あまりの近さにびっくりしました。

塵塚のちりに交はる松虫も   
  とゑば涼しき物と知らずや



参考:国立国会図書館デジタルコレクション『燕石十種 第2』『武江年表 増訂』『川柳吉原誌:江戸研究』『稀書複製会刊行稀書解説 第7編下「三十三番無陀所」』『寸鉄短歌集』『女煙草
Webサイト 港区三田三丁目の町会-三田慶南町会-「町会の歴史

筆者注 新しく解読できた文字や誤字・誤読に気づいたときは適宜更新します。詳しくは「自己紹介/免責事項」をお読みください。📖