【古今名婦伝】常磐御前
※ 「義朝」は、源義朝。平安時代後期の武士で、河内源氏六代目棟梁。源頼朝、源義経の父。
※ 「野間」は、尾張国知多郡野間村。源義朝が討たれた最期の場所。
※ 「福原の御所」は、摂津国福原京にあった平清盛の邸宅のこと。雪見御所。
※ 「入道相国」は、平清盛のこと。
※ 「三子」は、源義朝と常盤のあいだに生まれた三人の男の子。今若、乙若、牛若。後の 阿野全成、義円、源義経。
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常磐御前は、近衛天皇の中宮 九条院(藤原呈子)の雑仕女であったとされます。河内源氏六代目 棟梁源義朝 の側室になり、三人の男の子(今若、乙若、牛若)を産みます。
彼女が生きた平安時代末期は、権力が公家から武士に移る過渡期にあって、皇位継承や実権争いなどの政情不安が続いていました。
保元の乱(1156年)では勝者であった源義朝も、平治の乱(1160年)では賊軍となり、官軍平家から討伐される立場となります。京から敗走した義朝は、三十八才という若さで尾張国野間にて討たれました。
残された常盤は三人の子どもを連れて雪中を逃げ、生まれ故郷の大和国にたどり着きますが、京に残る母が捕らえられたと知り、平清盛のもとに出頭します。
出頭した常盤と清盛のやり取りは史実としては残っておらず、常盤の美しさに清盛が惹かれて … というのは『平治物語』や『義経記』の物語として広まったようです。いずれにしても、三人の男の子は助命され、長男と次男は出家、三男は常盤が再婚した藤原北家中関白家の一条長成の養子(後の源義経)となります。
このとき、源義朝と正室 由良御前のあいだに生まれた源頼朝も助命されており、彼らを助命したことが平家滅亡の基となりました。
治承四年(1180年)に頼朝が挙兵すると、義経は兄のもとに馳せ参じ、平家討伐において大きな功績をあげますが、やがて頼朝と敵対して立場は一転、朝敵として討たれる側になります。
朝敵として討たれた夫の仇を討ったわが子が、正室の子によって朝敵として討たれる … とても辛いことだったと思います。
常盤の最期については記録がなく、文治二年(1186年)に京の一条河崎観音堂で鎌倉方に捕えられたのを最後に、その後の消息は不明だそうです。
常盤木の 松の操を捨小舟
たよる嶋さへ なみの中なる
参考:国立国会図書館デジタルコレクション『常盤御前(皇国二十四功)』
国立歴史民俗博物館『賢勇婦女鏡 常盤御前』
Wikipedia「常盤御前」「源義朝」「源義経」
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