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【古今名婦伝】常磐御前

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『常磐御前(古今名婦伝)』

常盤ときわ御前ごぜん

常盤ときはは 夫 義朝よしとも野間のま内海うづみほろびてのち三人みたりともなひてちまたたゞよ平宗清たいらのむねきよ は、清盛きよもりおほせをうけて、これをとらへ福原ふくはら御所ごしよく。入道にうだう相国さうこく常盤ときはえんまよひて、三子さんし助命ぢよめいせられ、遠国をんごく配流はいるす。ときはゝ幼童をさなごをたすけんがため貞操ていさうやぶり、亡夫ぼうふ遣命ゐめいをついて、源氏げんじ再起さいきもとゐふくむ。

※ 「義朝」は、みなもとの義朝よしとも。平安時代後期の武士で、河内かわち源氏げんじ六代目棟梁。源頼朝、源義経の父。
※ 「野間のま」は、尾張国知多郡野間村。源義朝が討たれた最期の場所。
※ 「福原ふくはら御所ごしよ」は、摂津国福原京にあった平清盛の邸宅のこと。雪見御所。
※ 「入道にうだう相国さうこく」は、平清盛のこと。
※ 「三子さんし」は、源義朝と常盤のあいだに生まれた三人の男の子。今若、乙若、牛若。後の 阿野全成、義円、源義経。

常磐御前
保延四年(1138年)- 没年不詳

まさ平家へいけほろぼして武将ぶしやうしゆたるひとうみたまへるきみなれど、晩年ばんねん盛衰せいすゐいとあはれなればいづれ本意ほんいならざらん

  常盤木の 松の操を捨小舟
     たよる嶋さへ なみの中なる

常磐ときわ御前ごぜんは、近衛天皇の中宮 九条院(藤原呈子ていし)の雑仕女ぞうしめであったとされます。河内かわち源氏げんじ六代目 棟梁みなもとの義朝よしとも の側室になり、三人の男の子(今若、乙若、牛若)を産みます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『武者かゞ美 一名人相合 南伝二(武者鑑)

彼女が生きた平安時代末期は、権力が公家から武士に移る過渡期にあって、皇位継承や実権争いなどの政情不安が続いていました。

保元の乱(1156年)では勝者であった源義朝も、平治の乱(1160年)では賊軍となり、官軍平家から討伐される立場となります。京から敗走した義朝は、三十八才という若さで尾張国おわりのくに野間のまにて討たれました。

出典:メトロポリタン美術館『The Rebellions of the Hōgen and Heiji Eras
保元の乱・平治の乱

残された常盤は三人の子どもを連れて雪中を逃げ、生まれ故郷の大和国にたどり着きますが、京に残る母が捕らえられたと知り、平清盛のもとに出頭します。

出典:シカゴ美術館『Tokiwa Gozen Fleeing with Her Three Children

出頭した常盤と清盛のやり取りは史実としては残っておらず、常盤の美しさに清盛が惹かれて … というのは『平治物語』や『義経記』の物語として広まったようです。いずれにしても、三人の男の子は助命され、長男と次男は出家、三男は常盤が再婚した藤原ふじわら北家ほっけ中関白家なかのかんぱくけ一条いちじょう長成ながなりの養子(後のみなもとの義経よしつね)となります。

このとき、源義朝と正室 由良ゆら御前ごぜんのあいだに生まれたみなもとの頼朝よりともも助命されており、彼らを助命したことが平家滅亡のもといとなりました。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『源宗于朝臣(見立三十六歌撰之内)

治承四年(1180年)に頼朝が挙兵すると、義経は兄のもとに馳せ参じ、平家討伐において大きな功績をあげますが、やがて頼朝と敵対して立場は一転、朝敵として討たれる側になります。

朝敵として討たれた夫のかたきを討ったわが子が、正室の子によって朝敵として討たれる … とても辛いことだったと思います。

常盤の最期については記録がなく、文治二年(1186年)に京の一条河崎観音堂で鎌倉方に捕えられたのを最後に、その後の消息は不明だそうです。


常盤木の 松の操を捨小舟 
    たよる嶋さへ なみの中なる



参考:国立国会図書館デジタルコレクション『常盤御前(皇国二十四功)
国立歴史民俗博物館『賢勇婦女鏡 常盤御前
Wikipedia「常盤御前」「源義朝」「源義経

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