なぜ私は無職になったのか?
理由その1
遠かったから
「え?そこ?ライフプラン甘すぎない?」
すみません。人の縁って色々ありますよね。
「って頑張れよ。都心まで通勤1.5時間なんてざらだろ。」
そうですね。
以前はその時間も気持ちの切り替えになる上、
本を読んだり勉強したりと有意義な時間だと捉えてました。
でも子供ができて大切なものが変わりました。
①保育時間がもったいない
フルで働く気がないとなると、通勤時間も勤務したほうが効率的。
②災害時の心配
忘れもしない、2011年3月11日。
家族の安否もわからないまま、線路を頼りに家へ向かった。
あんなことが今起きたら、と思うと怖くて、
少しでも子供のそばで働きたいと思うようになりました。
理由その2
激務だったから
何度自宅の鍵穴にSuicaをかざしたことか。。あ、開かない、なんで?あ、Suicaか。。
実は所長一年目でした。
「え!辞めたの?無責任」
はい、その通りです。
妊娠中のトラブルのため現場から離れたら、心がポッキリ折れてしまいました。
子供を授かった時「これで解放される、ありがとう」とすら思いました。
幸い同じ法人内に元の所長がいたのでなんとかしていただきました。
何がそんなに激務で追い込まれたのか?
大きく3つ。
①所長業務が煩雑
スタッフ、利用者さん(訪問介護や看護などの業界では患者さんではなくそう呼びます)のことだけでなく、
経営状況をまとめる資料作成や、レセプト作業(医療費等の請求業務)、関係各所への報告書などの事務作業も行う必要がありました。
私が見てきた所長は定時で帰れず、休みの日も出勤してきていて、しんどそうとばかり思ってました。
訪問看護は楽しいのに!
②慢性的な人手不足
・事業拡大に伴う人手不足
・経営維持・向上に伴う人手不足
・採用、継続雇用に繋がらない人手不足
スタッフの安全、利用者さんの安全それぞれを守らなきゃ、経営も維持しなきゃ、頭の中フル稼働でした。
結果、事務業務は、終業後や昼休みの時間でこなすしかなく、
気付けば夜遅くに外でラーメン食べて夫に愚痴る日々でした。
何やってるんだろう私、いつまで頑張ればいい?そう思っていました。
③業務改善の方法、時間の捻出ができない悪循環
利用者さんの満足度を上げるためにスタッフみんな本気で頑張ってました。
でもスタッフの満足度は一向に上がらない。
「もう少し頑張ろう」と言い続け
変な連帯感で共に戦ってる感じでした。
改善するためにどこから手をつけたらいいのか…改善に当てる時間はどこから捻出するのか…
立ち止まって、改善する方法を建設的に継続的に行える方法が見つけられなかった。
そしてそもそも立ち止まれるなら家に帰りたかった…。
燃え尽きてました。
夫から言わせれば、単なるパワハラらしいのですが、上司も必死だったと思うのです。
でも所長であった以上、さまざまなニーズの中で今やらなくていいこと、やれないことを選択する必要があったとも思うのです。
選択したところでそれが通ったかは別ですが。
管理職に戻らなくても、慣れてる職場で時短で働いて…一瞬考えましたね。
でも、何が大事かわからなくなる生活になることは目に見えてました。
強い言葉で言えば、スタッフの犠牲の上に成り立ってると感じるあの状況にまた戻れないと思いました。
復帰できるシステムや組織づくりができたら良かった…
こうやって書いてみると「人のせい」と思っているところがやっぱりありますね。
なりたくなかった所長にならざるを得なかった、と言い訳したいんでしょうね。でも所長も楽しかったんですよ。だから戻りたくないと思ったことできなかった自分が悔しいんです。
個人的な経験と視点での振り返りですが、言語化して、今後の自分につなげたいと思うのです。
次の記事は、
「それでも訪問看護に戻りたい?」
を書きます。
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