闇と魔術的リアリズムで描く『夜を走る』
昼間、会社に営業へ訪れていた姿を記憶する女性が、夜もかなり更けた時間に駅前で立ちすくんでいるのを、2人づれの男のうちの1人が見つける。男は声をかけようと連れの男に言い出し、かくして3人は酒席をともにすることになるが、結局、終電を逃すことになる。そこから単調な日常が崩れてゆく『夜を走る』は、世界が無数の変貌の可能性で醸成されていることを示唆する。
郊外のスクラップ工場で働く秋本(足立智充)は、営業成績が上がらないことからパワハラ気質の上司・本郷(高橋努)から疎まれている。後輩の谷口(玉置玲央)は気遣って世話を焼くが、秋本をフィリピンパブに連れて行っても所在なさげで、気になるフィリピーナとも、ろくに口を聞かない。ある日、工場に産廃会社の営業として理沙(玉井らん)がやって来る。
その後の展開は、冒頭に記したとおりだが、こうした設定に対して、終電を逃すとは、ありきたりな状況設定だなどと言っていては、もちろん映画を愉しむことなど不可能になる。『花束みたいな恋をした』が終電を逃すことで物語が動き出したように、単調な日常から変化をもたらすための装置としては――ありきたりではあるが、違和感はない。
ところが、彼女を送るために会社の営業車を持ち出して車に乗せたようとした際、彼女のちょっとした振る舞いに秋本が激昂して顔を殴ったとしたらどうか。不意に女性に向けられた暴力は、とうてい観客の理解が及ぶところではない。手垢のついた設定と、タガが外れた描写が並行して存在するところに、本作の奇妙な魅力がある。
次のカットは、もう翌朝へと変わり、その夜の出来事などなかったかのように秋本は営業に回り、谷口も仕事に従事する――しかし、何かがあったことを、谷口の妻(菜葉菜)は感付く。やがて工場に理沙の失踪を探る捜査の手が伸びるが、疑いがかかったのは、失踪当夜に彼女を誘い出した本郷だった。
警察の動きに乗じて、営業車のトランクに隠されていた死体を、密かに本郷の車へ移動させようと秋本と谷口は画策する。死体が次々と場所を変え、その死体が発見されても、また別人によって隠される展開は、アルフレッド・ヒッチコックの『ハリーの災難』を思わせるが、だからと言って、理沙はなぜ死んだのか? 誰によって殺されたのか?をたどろうとしたり、〈サスペンスを基調に閉塞した社会を描いた映画〉といった枠に押し込めようとすると、とたんに『夜を走る』は逸脱を始める。
映画が転調するのは、自室にいた秋本が、理沙の携帯にかかってきた着信に出る場面だろう。なぜ、被害者の携帯を加害者が自宅に持ち帰っているのかなどと気にする必要はない。携帯からは彼女の声で「見える?」という声が聞こえてくる。気配を感じた秋本が窓を振り返ると、キャメラも上手へと緩やかにパンしてフレームに窓を収める。すると、窓外に立つ人影が目に入る。外から面格子へと手をかける人影と手前の秋本との距離が絶妙で、こうして此岸と彼岸、または多元世界といったものの境界が、たちまちのうちに出現する。この窓を介した隣接する世界の接近は、終盤でも感動的なかたちで登場することになる。
後半は、〈越境〉を遂げた秋本によって、次に何が起きるか全く予想がつかなくなる。もはや、ジャンルによって映画を定義することすら困難となり、拳銃が欲しいと念ずれば、たちまちのうちに手に入ってしまう世界を駆け抜けていく。こう書くと、何でもアリの映画かと思う向きもあるだろうが、佐向大監督は最初から、緻密に世界の裂け目を描いていた。
開巻間もなく、営業車を降りた秋本が歩く姿をロングショットで捉えた長い1カットの終わりを観れば良い。奥深い闇が際立つ巨大な工場を映し出し、秋本は吸い込まれるように入っていく。この闇と共にそびえ立つ工場が、まるで別の世界へと通じる穴のように見えてくる。この後に登場するクレーン車を逆光で捉えた見事なショットといい、渡邉寿岳の撮影は、工場と無機質な機械へ特別な眼差しを向けているように思える。
その予感は、警察の捜査への探りを入れた谷口が、操業を止めた深夜の工場内を歩いている時、誰かによって発せられた金属音に足を止める場面で確信へ変わる。画面の下手に工場内の闇を見つめる谷口を肩越しに映し出し、ゆっくりと上手へとキャメラがパンすると、工場の最も奥に置かれたクレーン車のシルエットと、幾何学模様で組み合わされた周辺の金属が、かすかな光によって鈍く反射しており、忘れ難い印象を残す。
この見事な空間把握力を持ってすれば、谷口の娘が喫茶店で水槽の魚を見ていたはずが不意に隣に座っていようが、後半で時間も空間も飛躍していこうが、混迷を来たすことなどない。徐々に裂け始めていた隣接する世界との破れ目が開いたからには、何が起きようが驚くには値しない。終電に遅れることなく、理沙が殺されず、秋本が幸福に暮らす世界は、窓ガラス一枚隔てた隣の世界に存在しているに違いないのだから。
あとは、どこまでも過剰に広がっていく世界に心地よく身を預けるのみだが、闇に最も近い空間である劇場へ足を運ぶことで得られる没入感が格別な映画体験を約束することは言うまでもない。
5月13日公開。テアトル新宿、ユーロスペースほか全国順次ロードショー
『夜を走る』 2021年、日本、カラー、シネスコ、125分
脚本・監督/佐向 大
出演/足立 智充、玉置 玲央、菜 葉 菜、高橋 努、宇野 祥平、松重 豊
http://mermaidfilms.co.jp/yoruwohashiru/index/