多賀盛剛『幸せな日々』
多賀盛剛さんの第一短歌集『幸せな日々』をよみました。
すべてひらがなでかかれている歌集です。
声にだしながらよんだのですが、関西弁のイントネーションがわからず、ネイティブ(?)の人によみきかせをしてほしいなぁとおもったりしました。
すきなうたを、ひいていきます。
あかるいほうへ、あかるいほうへ、進んでいくのはよいことにおもえます。
でも、「よるのこと」を知らないひとがいたら、こわいとおもいました。
暗さを知らないということは、うしろむきになることや、ネガティブになることを知らないのかなとおもうのです。
にんげんは、いつもいつもまえむきではいられない。
ときには、落ちこむこともあるとおもうのです。
わたしは、だれかに寄りそうことができるようになるためにも、「よる」も知っておいたほうがよいのではないか、とおもいました。
「だれもきにしない」のはさびしいきがします。
ですが、このうたの「あなた」は、とてもきがはっていて、ねることもできないくらいなのです。
あなただけががんばらなくても、きせつはめぐるんだよ、だからちからをぬいていいよ。
そんなふうに言っているのだとおもいました。
きっと「あなた」には、いまいちばんひつようなことばだったのだろうな、とおもいました。
いすは、基本はにんげんがすわるためにあるものです。
いすを、いすだとおもわないひとは、立ったままでいるか、ゆかにすわるのでしょう。
「いすを知っているか、知らないか」という区分けもありますが、「いすを知っているけれど、めのまえのそれを、いすと認識できるかどうか」というかんがえかたもあるとおもいました。
「いすだとおもうひと」がえらいわけではありません。
でも、「いすにすわるひと」はちょっとだけ、得をしているようなきがしました。
「わたし」をとても肯定しているうただとおもいました。
ぜったいにだいじょうぶだと言っているようにかんじました。
それとどうじに、「わたし」はとてもぎりぎりのひとなのではないかとおもいました。
そらがおちないことを担保にして、じぶんを肯定するのは、おいこまれているひとがもつ感覚のようにもおもえたのです。
自信があるから言えるのではなく、自信がないからこそでてきたことばなのではないかという印象をうけました。
うたにあわせて、なるべくひらがなで書くようにしてみましたが、むずかしいですね。
よみづらかったらすみません。
とてもすてきな歌集ですので、おてにとっていただくきっかけになれたらうれしいです。
およみいただき、ありがとうございました!