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大辻隆弘『樟の窓 短歌日記2021』

大辻隆弘さんの『樟の窓 短歌日記2021』を拝読しました。
各月から好きな一首を引いていきます。

東(ひむがし)に雲の平(たひら)が移動してターナーの絵のごとき曇天

一月十五日 通勤途上

私は、空を見て、雲を見て、何かに例えられないかなぁと考えることが多いです。
見上げれば見られる芸術とでもいえるでしょうか。
ターナーは水彩画のような質感の絵を描く画家です。
一時期好きで画集をよく見ていました。
主体は東に向かっているのでしょうか。
向かう先が曇っていると少し憂鬱になりそうですが、「ターナーの絵のごとき」と言っているので、美しい景色だと思っているのでしょう。
比喩の選びが好きな一首です。

眠いよなあとつぶやくだらう樹に言葉が、仮に言葉があつたとしたら

二月二十六日 芽吹

「樹が話す」という発想がすでに面白いのに、「眠いよなあ」と同意を求めてきているのがさらに面白い。
主体はきっと眠たいなーと思いながら、窓の外の樹を眺めていたのでしょう。
主体の心情が樹に乗り移っているのを、さも当たり前のように描写しているのが面白くて好きな一首です。

意に添はぬ内示を受けて木蓮の雨を見てゐしあれはいつの日

三月十六日 司書室の窓

静かでしっとりした一首です。
「意に添はぬ内示」を受けたのは、ずいぶん前のことのようですね。
反発する気持ちを持っていたころに比べて、自分は随分穏やかになったなぁなどと考えているのかなと思いました。
堅い内容から始まって、叙情に流れていく感覚が好きな一首です。

影として幹たちならぶ森のなかを遠ざかるひと、あれが私だ

四月二十三日 夕景

不思議な一首だと思いました。
私が私を見ているのです。
夢の中の景の様です。
今ここにいる私は本来の私ではない。
あそこにいる遠い小さな人が私なのだ。
自らを遠くに定義する不思議さが好きな一首です。

抽象をされゆくひとの肉体を素描の線の奥に見たりき

五月十四日 パブロ・ピカソ

ピカソの展覧会を観に行った景かなと読みました。
素描はデッサンのことだそうです。
抽象的な作品を残している人も、素描などでは圧巻なほどの描写力を見せますよね。
油絵の完成品を見て、頭に?の浮かんでいた主体も、素描を見て、人間を描く能力の高さに圧倒されたのではないでしょうか。
「素描の線」のさらに「奥」を見ている感覚がすごいなぁ、好きだなぁと思った一首でした。

みづうみが内湖を捨ててゆつくりと北上をするやうな別れだ

六月八日 歳月

内湖とは、琵琶湖周辺湿地だそうです。もとは琵琶湖の一部でしたが、沿岸流の作用、湖への流入河川から運ばれた土地の堆積等によって生じた潟湖(ラグーン)です。水深が極めて浅いのが特徴だそうです。干拓で大部分が消失した歴史があるそうです。

上記はネットで調べたものですが、歌が描いている「内湖」と一致しているのかどうかわかりません。力不足ですみません。
ただ、言葉の意味は分からなくても、イメージは膨らみます。
雄大な湖が小さな湖(と言っていいのかしら?)を捨てて、ゆっくりと移動していく。
「ゆっくり」は何年も何十年もかけてだと思います。
そんな別れを経験したと書いている。
引き裂くような別れではなく、歴史が動いていくような別れを描いている点が好きな一首です。

敗れたる若者は立つその頰を涙のくだるままに任せて

七月十八日 高校野球三重県大会

ストレートさが胸を打つ一首です。
高校野球の選手をテレビで見たのか、球場で見たのか。
涙をぬぐうこともせずに真っ直ぐに立つ若者。
高校野球が人を魅了する理由のひとつが描写されていると思いました。
好きな一首です。

岩の稜(かど)にぶち当たるとき拳(こぶし)大の塊となり落つる水あり

八月二十三日 蒼滝

蒼滝(あおたき)は三重県にある滝のようです。
滝はザーッと一直線に流れているイメージでしたが、主体の目には「拳大の塊」が見えたようです。
実際に滝を見た情景なのだろうなと思わせるところと、「ぶち当たる」という乱暴な言い回しが滝の勢いを表しているところが好きな一首です。

その裏に星座を隠し片翼(へんよく)のかたちに夜の雲がひろがる

九月十八日 夜

「片翼」は、「片方の翼」というそのままの意味もありますが、「二つ揃っているはずのものがひとつしかなく、不完全なさま」という意味もあるそうです。
「不完全な雲が星座を隠して広がっている」というのは、神話っぽくてなんとも素敵です。
星座を隠すというのも好きな感覚の一首です。

高低も前後もあらぬ暗闇を「永遠だ、これは永遠」と言ひたり

十月二十七日 偶成

「偶成」は、偶然に出来上がること。たまたま心にうかんで出来上がることとです。
この一首が心にうかんできたのでしょうか。
高低も前後もない真の暗闇の中、永遠を呟く主体。
謎めいています。
超短編小説のような雰囲気を持つ、好きな一首です。 

犬は死を何と思ふか死をおもふことなく逝かむこの犬羨(とも)し

十一月十日 九歳

犬は死を知らないのでしょうか。
「死」という概念を知り、恐れながら生きているのは、人間だけなのでしょうかね。
思わず羨ましいと思ってしまう主体は、いつか自分が死ぬことを思い出しては、恐れているのでしょう。
もし犬が死を意識していたとしたら、「勝手に定義しないでよ」と犬に怒られてしまいそうですね。
犬を大事にしていると同時に、犬の思考を読み取った気になっている主体の傲慢ともいえる態度が、なんだか人間らしくて好きな一首です。

わたしごときのために停まって戴いてあひすみませぬと思ひて渡る

十二月二十一日 横断歩道

横断歩道を渡っている時に、曲がってきた車が主体のために停まったという景ですね。
いつもいつもこの態度では渡っていない気がしました。
いつもならちょっと速足で通りすぎるくらいなのに、この時は「わたしごとき」なんて思ってしまった。
ちょっと落ち込んでいたり、卑屈な心情になっていた時なのではないでしょうか。
止まった車の運転手が「わたし」を見ているのをひしひしと感じ、「早くどけよ」と責められているように感じる。
外から来るものすべてが、自分を責めようとしているように感じる時ってあるよなぁと共感した一首でした。

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