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堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』
堂園昌彦さんの『やがて秋茄子へと到る』(港の人)を拝読しました。
印象に残った歌を引きます。
泣く理由聞けばはるかな草原に花咲くと言うひたすらに言う
自分から遠いどこかの草原で花が咲く。
自分とは関係のないところで、常に何かが起こっている。
それを自分は決して見ることはできない。
関係することのできないたくさんの出来事がこの世にあるという、途方もない恐怖が表現されていると思いました。
生きていることが花火に護られて光っているような夜だった
「護られて」という表記が印象に残ります。
「護る」という表記は、「何かをかばいまもる」という意味合いが強いそうです。
人間の身体が動くこと、生活が日常通りに続くこと。
それらは当たり前のことではありません。
でも、そんなことをいちいち考えて、感謝したり考え込んでいては、日常生活に支障が出るでしょう。
花火が上がる特別な夜空だからこそ、主体はきらめくような思考にたどりついたのではないでしょうか。
生きるならまずは冷たい冬の陽を手のひらにのせ手を温める
空気が冷たく感じる冬の日、日なたの明るさはありがたいものですね。
明るい日差しにそっと手のひらを差し出す主体。
かすかに感じる温かさを頼りに、自身の生きる先を見極めます。
「冷たい冬の陽」で「手を温める」という倒錯した表現が、生きていくことの繊細さを表しているように感じました。