『アルカリ色のくも 宮沢賢治の青春短歌を読む』
『アルカリ色のくも 宮沢賢治の青春短歌を読む』(佐藤通雅 編著)を拝読しました。
宮沢賢治の短歌を時代別に区分し、現役の歌人たちが解説を書いた本です。
気になった歌を引いていきます。
盛岡中学校時代に詠まれた歌。
ひらがなとリフレインが印象に残った一首。
「青きもの」は前後の歌から判断して、湖のことを指すのではないかと解説にはあった。
一首として取り出して鑑賞した時、私は自然そのものを表現しているのではないかと読みたくなった。
そして、にらまれているのは自分ひとりではない。
「われら」は実際の小集団ではなく、人間全体を指しているのではないかとも思った。
自然は決して人間に恵みをもたらすために存在しているのではない。
私たち人間は自然ににらまれながら、うとまれながら、それでも生活を続けていく。
盛岡中学校を卒業後、肥厚性鼻炎のために、手術、入院している際に詠まれた歌。
「ゆみはりの月」は半月のこと。
なかなか眠れない夜に窓の外を見た時の景だろうか。
宮沢賢治の作品はファンタジックなイメージがあり、この歌も賢治らしいなぁと他作品をあまり読んだこともないのに思ったりした。
月が自分の窓までわざわざ来て、口を歪める。
景色を自分に引きつけて詠んでいるところが面白いと感じた。
盛岡高等農林学校に通う頃に詠まれた歌。
焦燥感や鬱屈感を感じ、それを解消する術も見つからず、歌に込めたのだと読んだ。
「どなる」はとても強い言葉だ。
怒りをどこかに、誰かに向けて爆発させたい。
そんな欲求を感じる。
しかし、現実はそう簡単には変わらない
「落ちきたる霧」は、ひんやりと、目の前を曖昧にしてしまう。
いっそすべて投げ捨ててしまえと思っても、投げ捨ててまで掴みたい何かは見つからない。
何者にもなれない自分に対する焦燥を抱えながら、家路を進む賢治を想像した。