勉強をもっとできるなら何の勉強をしますか?
森高千里さんの「勉強の歌」である。父親が「素晴らしい…」と小声で言い、深く共感する。よく車で流す曲だった。
私は最近父親の、世界観に浸るかのように、小声でなんか言うやつがどうしても苦手なのだけど、これは親だから嫌なのか、なんなのかわからない。
まぁ、それはいいとして、私の大学名の印象は大概二極化する。頭いいと思う人と、そう思わない人。
バイト先のおばちゃんは私の大学、頭いいと思ってる人なんですけど、「私もね、もっと頭良くなりたかった」とか、「勉強しとけばよかった」っていう。
その発言に対しての私の関心ごとといえば「勉強すればよかった」に、なにを何のために勉強するのかが明確に含まれているのか、です。
私だって大学受験のとき、もっと勉強したらよかったって思ったし、結局第一志望の大学に行けたけれども、ギリギリで通ったもんだから、私にはこの学校に似合わない存在だと思って、コンプレックスの塊だった。
なんか、私は世間にいちゃいけない、って卑屈になってしまってた。
それで、私"意識高い系"目指してみたんですよ。
国際交流系のサークルに入る、
そのサークルのある部門の副リーダーになる、
インターンシップ、
選挙活動してみる、
ボランティア、
英語の勉強、
留学、
他学部の授業を受ける、
資格試験受ける、
(国際交流系とは別の)サークル長する
…これが大学5年間やってきたうちの最初の3年間でやったことです。結構書いてみると意識高い系じゃないですか?笑
でも、ぷっつり切れた時があって。
なんか、私がやってることってホントにやりたいことじゃなくて世間一般的に素晴らしいと言われてることをそのままやってるだけじゃない?って思ってしまって。
そう思った瞬間、私がやりたかったことって何も無くね?って思うようになり、なにもかもやる気をなくして、当時資格勉強してたんですけど、なにもやらなくなってしまいました。
私頭いいと思ったことないですけど、仮に勉強ができても、自分を肯定することにはなかなかつながらないですよ。きっと。
世間とのずれをまたどこからか見つけてきて、劣等感に浸るのがオチだな、と思うようになりました。
で、自分の身を忙しくして安心しようとしてただけ。
高校時代、私結構成績よかったんですよ。
当時は勉強がわかることが楽しいと、錯覚してましたけど、アレは今思えば自分の見栄を張るために勉強してました。
自分の意思とは無関係に勉強してたような気がします。だから、違和感を感じるタイミングが来たんたと思います。勉強のおかげで自分を肯定できた出来事よりもよっぽど自分を否定したエピソードの方がわたしには多いし。
今は劣等感を感じないために何かするんじゃなくて、満足するために何かを頑張ってみたいです。
そう思ったきっかけは、サークル長やったときですね。そのサークルのメンバーがめっちゃ好きで好きで、めっちゃ忙しかったのですが、サークル長できたのがめっちゃ幸せでした。
好きなメンバーのために動くのが、すごく幸せでしたね。メンバーも好きだし、メンバーの中にいる自分も好き。
満足ってこの感覚か!と思ったので、ちょっとこの感覚に近づけるように頑張ってみたいです!
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