慶長長門国絵図

文明と地図を考える その20 「慶長国絵図」

前回の記事では、江戸時代に製作された官製の地図、国絵図と日本図について触れました。

特に国絵図は、諸国の内情を幕府に開示するもので、諸藩が幕府に服従している証左でもありました。

一方、この国絵図は将軍の代替わりごとに提出させられたわけではなく、江戸時代を通して提出が命じられたのは5回だけです。
回数が少ないということは、それぞれの時期に「提出をさせる」理由があったはずです。

というわけで今回は


江戸時代の官製日本地図②
国絵図はなぜ作られたのか?

です。

まず、国絵図の提出が命じられたのは全部で5回です。
①慶長10年(1605年) →家康・秀忠
②寛永10年(1633年) →家光
③正保元年(1645年) →家光
④元禄10年(1697年) →綱吉
⑤天保6年(1836年) →家斉

です。これらの時代背景についてそれぞれ紐解いていきたいと思います。

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