凶器
「痛いっ!」
右足の裏に激痛が走り、思わず声を上げた。午後六時半過ぎ、入浴後に台所へ行き、ゴハンを炊こうとした時だ。
お風呂上がりで足元が湿っていたため、何も履いておらず裸足であった。
昨年、夫が半年ほど陸別に出張していた間、炊飯器で炊いた一人分のゴハンが美味しくなくて参ったので、お鍋を使うことにした。
短時間で炊きあがり、ふっくら、ツヤツヤしていて美味しい。独特の甘みや、炊きあがる時のいい香り。
すっかりやみつきになった私は、二人分の食事を作るようになっても、炊飯器を使わなくなった。
その時も「さて、炊きましょうか」と、ウキウキしながら鍋をIH調理機に乗せた。ツヤツヤ、ふわふわに炊きあがった美味しいゴハンを思い描きながら。
痛みを気にしながらも、とりあえずスイッチを入れ、居間に戻る。右足の裏には小さな赤い点があり、薄っすらと血が滲んでいた。
幸い、傷口は小さかったので絆創膏を貼る。その後、入浴後の肌や髪の手入れなどをしているうちに、痛かったことも血が出たことも忘れた。
キッチンタイマーがピピピッと鳴って、ゴハンは無事に炊きあがった。
夕方の激痛を思い出したのは夜だった。
冷えてきたので靴下をはこうとして、絆創膏に気づいたのだ。つまりそれまで痛みもなく気にすることもなかった。けれど
「毒蜘蛛にでも咬まれたのか?」
「鋭利な刃物の刃先が落ちていた?」
「悪い病気の前触れとか?」
と、生来のマイナス思考が働いて、急に悪いことばかり思いつく。
「何か踏んだんじゃないの?」
夫はつまらなさそうに言う。
「だって、そんな硬いもの、台所にないでしょう」
彼は答えず、食後の習慣にしている青汁を飲むと二階に行ってしまった。
ほどなく、自室から翌日の廃品回収に出す空き缶を持って来た夫が、IH調理機前にあるポリバケツの前に屈みこんで言った。
「これじゃないの?血もついてるよ」
そして小さな物体を指でつまんだ。
それはカラカラに乾いたゴハン粒だった。
毒蜘蛛か、病気かなどと思い悩んだ少し前の自分がおかしくて、笑いが止まらない。
つられたように笑う夫は
「ドジなんだから」
「すぐ変な事ばっかり考えて」
と、独り言みたいに言っていた。
ところで、認知機能を維持するのに料理は大変効果的だという。刃物を扱い、熱した鍋を使い、時には高温の油での調理もする。
「つい、うっかり」で手や指を切ったり、大火傷をする危険性と常に対峙しなければならない。
そういえば敷地内同居をしていた夫の母も四年前に他界するまで毎日料理をしていたが、認知症とは無縁でしっかりしていた。
長年やっていても、慣れていても、怪我をしないということはない。調理以外でも食器洗いで欠けたお皿に触れて指を切ることもあれば、重い鍋を出す時に腰を痛めたりもする。
加えておっちょこちょいの私は、シンク下の扉に手を挟んだり、生ごみ用のポリバケツに躓いて転んだりもする。
私の場合、台所での作業中の怪我は、階段や浴室での転倒より絶対的にその数が多い。
それにしても、常日頃から台所での調理作業中には色々気をつけていたのに、まさかゴハン粒で怪我をするなんて。
あの「真っ白・ツヤツヤ・ふわふわ」が時間の経過で「凶器」に変わる。
それから私は茶碗洗いを終えると、台所の床を丁寧に雑巾がけするようにしている。
※今年の夏に文章教室提出のため書いた随筆です。
少々手直しして隣町の文芸誌に寄稿させていただきました。
写真のゴハンは実際にお鍋で炊いた美味しいゴハン。
…「凶器」になる前の…(笑)