いくちゃん

モノカキ大好きな道産子です。素敵な仲間に恵まれ、励まし合いながら地元の公募に出し続けて…

いくちゃん

モノカキ大好きな道産子です。素敵な仲間に恵まれ、励まし合いながら地元の公募に出し続けています。

最近の記事

包丁供養

 十月上旬の夕方であった。豚肉でピカタを作ろうと厚みのある肉をまな板に置いて包丁の背で叩いていると、柄がグラグラしてきた。  どうしたのだろう?と軽く持ち上げた途端、刃が床に落ちた。  柄を見ると、刃の根元を止めていた金具が折れている。落ちた時の衝撃で刃先も少し欠けている。  ああ、とうとうお釈迦になってしまった。十年前にホームセンターで購入し、長年愛用していた包丁。  ここ数年はさすがに切れ味が鈍っていたが、毎日使う包丁を「切れなくなったから」と安易に買い替える気になれず、

    • 街角のラヴェル

       ピアノの音がする。「きらきら星」だ。よく散歩の途中で立ち寄る保育園の先生と園児か。ピアノに合わせて子供達が唄っている。  ここは中心街に近い「市民プラザ」の一階にあるコーヒーショップ。アルバイトを始めて一か月が経った。  叔父が店長で「夕方のシフトに入れる人が少なくてな。お前、放課後手伝ってくれないか?」と頼まれたのがきっかけであった。 「俺で勤まるかなあ?」 「お前は礼儀正しいから大丈夫だよ。姉さんがきっちり躾しているからな」  大学受験までは二年以上あるし、部活動もやっ

      • 海鳴り

        俺はイライラしていた。  面白くないことがあるとすぐ顔に出るのを知っている妻が「またか」というようにため息をついて横に座っている。 「仕方ないでしょう、こんな時に早くしろって言っても、無理よ」  わかっている。休日の当番病院が混むのは当たり前だ。そういえば、今年二十歳の息子が小さかった頃、よく休日当番の病院へ走った。日曜祭日というと決まって子供は熱を出したり、腹を壊したりした。 「救急案内に電話しろ」  いつも俺は妻にそう命じて調べさせ、当番にあたる病院に子供を連れて行った。

        • 僕がピアノを弾く理由

           スポットライトが譜面台に反射して、少しまぶしい。が、耐えられないほどではなかった。そもそも楽譜を見る必要はない。「全国高校生ピアノコンクール」は暗譜が原則だ。  ここから客席は見えない。両親と妹、ピアノの先生、そして同級生の旬吾と雅人が来ているはずだが、ステージ上から視線を移したその先は、真夜中の海のように真っ暗だ。  椅子に座り、大きく一度だけ深呼吸をしてみた。緊張はなかった。今日は祖父のためだけにピアノを弾く、そう決めていた。  演奏者紹介のアナウンスが聞こえた。 「三

          影が重なる

           一月下旬の晴れた午後。私は道東プラザの小ホール前ロビーで”あの人”を待っていた。  ここは毎年、地域で一番大きな楽器店が主催するイベント「大人のピアノおさらい会」が開催される会場である。  去年のその日、私は落ち込んでいた。子供の頃に習ったピアノを二年前から再開し、先生に勧められて出たこの会で何か所か間違えてしまい少しだけ演奏が止まったのだ。 「ああ、またお姉ちゃんにバカにされる」  情けなさから涙が出そうだった時、声をかけられた。そこには五十代くらいの女性がご主人と思われ

          臓器摘出

          午後の手術室は磨き抜かれたタイルが規則的に並び、無機質な機械音だけが鳴り響く。  手術台に横たわる患者は五十歳の男性で、肝疾患による腹腔内出血を起こしていた。  「すごい色の肝臓ですねえ、志賀先生」  助手を務める佐野がため息まじりにつぶやく。  「肝硬変っていうのは、こんなものさ」  「再生は無理ですね」  「移植しかないだろうね」  患者は三年前から診ている三田という患者である。私の担当する消化器外科で入退院を繰り返していた。肝硬変の末期で、昨夜、直腸からの大出血を起こし

          風の記憶

          一瞬、自分の体の中を風が通り抜けたような気がした。  鋭く冷たい風だ。  気が遠くなっていくのがわかった。椅子から崩れ落ちそうになるのを、かろうじておさえる。頭を軽く叩いて自分が今いる場所を確かめた。  目の前に広がる風景を改めて見る。乱雑な机の上に並べられた厚い本とパソコン、飲みかけの缶コーヒー、卓上カレンダー、デジタル式の置時計。  端に小さな銀色のトレーがある。その中に無造作に置かれたピンセットやガーゼ、鋏、絆創膏を見て、ここがとある総合病院の皮膚科診察室であることを思

          飛行機雲

          俺はイライラしていた。電話の向こうでなかなか泣き止まない美穂子にではなく、こんな真夜中に延々と押し黙った時間を過ごさなければならなくなったことに、だ。  美穂子は「あなたはわかってくれない」と、それしか言わない。 「そやかて、俺にはわからん。お前の言ってることは言い逃れや」 「だから…」 「何がだからや。俺が言うてんのは一つだけや。心を開いてくれ、そういうてるだけや」  つい声を荒げてしまう俺と、ただ泣いている美穂子。そして続く沈黙に耐え切れず、電話を切った。  美穂子と

          見上げる

           西陽を背に受けて日中の気温を思い出した。 「暑かったなあ、今日も」  そして後ろを振り返り、五階の窓から手を振る母を見上げる。   振り返るのは三回と決めている。そうしないと私がその場を離れられないからだ。  深々と頭を下げる母を何度も見なければならないからだ。  立ち去ることに後ろめたさを感じるからだ。  一昨年の夏、病で妻を亡くした。その年に定年退職を迎えたが、勤務先の大学の学長から慰留された。 「匂坂先生の講義は楽しいと学生からの評判がいいんだよ。委託講師としても

          トルソー

          明け方、地震があった。とは言っても一分にも満たない短時間で弱い揺れである。   揺れる少し前になんとなく目が覚めた。妻はそれには気付かず、規則正しい静かな寝息を立てて眠っている。午前五時二十分だ。  秋の日の出は遅く、寝室はまだ暗い。引き戸の障子がカタカタと鳴る。枕元のスマホを手にすると既に地震情報が届いていた。 「震源地 釧路沖 マグニチュード4・2 十勝中部 震度1」  目覚ましの設定時間にはまだ一時間ほどある。それまで眠ろうと思ったが軽い尿意があった。十一月の朝は寒い。

          コール

          0〇0 37〇6 83〇7…  ベッドに入り、枕元のスタンドを消す前に携帯電話を取り出す。アドレス帳の「あ行」をスクロールし、お目当ての名を探す。 「おとやん」 発信ボタンを押し、電話機を耳に押し当てると、少し間を置いてプツッと音がする。そして無機質な女性の声が聞こえてくるのだ。 「お客様がおかけになった電話は現在使われておりません。番号をお確かめになってもう一度おかけ直しください」   そしてまたかける。  090 37〇6 83〇7…  それを二、三回繰り返してから眠るの

          フェリー埠頭

          その日は午後から娘が来ていた。 「久々にモコに会いたいし、この前出張で千葉に行ってお土産も買ってきたんだー。届けがてら遊びに行くね」  前日の夜にそんなメールを寄越した。モコとは我が家で十年飼っている猫の名前である。  二月上旬にしては暖かい土曜日であった。  地元の短大を卒業後、十勝管内で大手の食品開発会社に就職。その翌年から帯広市内で一人暮らしをしている娘。二十代前半にはゴスペルを習い、そこでできた仲間とアカペラのバンドを作って活動をしたり、好きなゴスペルグループのコンサ

          フェリー埠頭

          おたから写真館

          階段を降りると俺の仕事場がある。二階と三階は住宅で、いわゆる「店舗併用住宅」だ。  一階のドアを開けると大きなライトやスクリーンが並ぶスタジオ。昔ながらの蛇腹式シャッターを押し上げ『おたから写真館』と書かれた看板を丁寧に雑巾で拭く。店内に光を入れるとまず俺は、カウンター脇の棚に飾ってある七個の写真立てに一礼する。これは俺が依頼されて撮影した遺影だ。笑顔の七人が「今日も頑張ってね」と言ってくれる気がするので毎朝こうして礼をしている。  苗字が「高良」なので「たから写真館」が正し

          おたから写真館

          二人の余白

          秋の陽が長い影を作る。煙草をくわえたまま私は、黒く光るレントゲン写真をつまんだ。 「坂田先生、それ、さっきの女性患者?」  放射線科の滝技師が聞く。 「ああ、向坂さんのだ。あっちにもこっちにも、癌だ」 「もったいないですねえ、綺麗な人だったのに。どうするんですか?」 「矢野先生に相談するよ」  矢野医師は私の10年先輩である。私がこのA総合病院に赴任した時、既に外科部長を努め、昨年からは副理事長も兼任していた。S医大の医局で辞令を受け取った時、先輩医師達は口々に私を羨ましがっ

          彼の遺言

          「先生、お願いがあるんですがね・・・」 回診中の私に、仲村隆一が話しかけた。彼は明日癌摘出手術を受ける患者である。 「どうしました?」 追従の看護師を次の病室に行かせてから聞いた。 「実は、これなんですが・・・」 隆一は財布から小さなカードを取り出した。 「アイバンク登録カード?」 「三十年前に他界した家内の父が全盲でしてね、目の不自由な方々の苦労は知ってるつもりです。死んでしまえば角膜は必要ないのだから、役立てて欲しいと」 「そうでしたか、で、私にお願いというのは?」 隆一

          外す手

          頬に突き刺さるような冷たい横風に、コートの襟を立てて私は、冬の海を見ていた。  寒さ故に凍らないI島周辺の海は、風に乗って舞う雪を音もなく吸い込んでゆく。  それにしても、何故、私はここに来たのか。夕暮れの迫る冬の海で考える。考えて考えて、行き着き頭に浮かぶのは、鈍く光る機械を外した私の右手であった。  宮脇俊朗は高校時代からの友人である。私は医者になるべく医大へ、宮脇はジャーナリストになりたいと、文科系の大学へ進んだ。卒業後、私は母校の系列病院に外科医として勤務し、宮脇は地