久門剛史 らせんの練習ー円周率は終わりなく、世界はゆるやかに上昇する。その可能性
まるで、人類が全ていなくなってしまったような、不思議な空間。ひたすらにまっしろで、人の気配は自分以外はない。けれど、「何か」の気配を感じる場所。
例えば、紙を送り出すアルミの装置。点滅を続ける電球の集合体。暗闇を照らし続けるミラーボール。まわるルーペに、風にたなびくカーテン。
繰り返される有限の動きの中で、偶発的に生まれる「何か」。この「何か」が、円のように閉じた世界において、変化を生み出します。
また、この展覧会で繰り返しモチーフとして登場するのは、無限に続く円周率ーらせんです。
円のように同じ地点に戻るのではなく、らせんは一周したあと異なる地点に降り立ちます。
「らせん」ーそれは、どこに到達するかは分からないけど、私たちがゆるやかに上昇していけることの可能性。
豊田市美術館の特別展ー「久門剛史 らせんの練習」ーは、そんな変化の可能性を提示してくれているような気がします。
この一連のインスタレーションは、「創造力」をもって、「現実」を異化します。
理性をゆさぶり、意識を覚醒させることによって。
思考をリセットし、感覚を心地よく包み込むことによって。
五感を研ぎ澄まして潜り抜けるこの空間を通じて、私たちは自分自身や世界との向き合い方を再発見するのです。
今回は、この展覧会を通じて感じたことを綴っていきたいと思いますが、初見の方は、先入観のないまっさらな状態でぜひとも体験していただきたいなと思います。
1.FORCE
特別展の会場に入ると、ふきぬけのまっしろな空間が目の前に広がります。正面の壁一面に、アルミニウムの装置が並び、その下は無数の白い紙で埋め尽くされている。まるでSF。どこか別の世界のような不思議な空間です。
これは何の機械だろう。しばらく戸惑いの中、立ち尽くしていると、紙が一枚はらりと、空間を漂い落ちていきます。
また、一つ。不規則に紙が舞い落ちていくのです。
まるで、桜がはかなく散っていくように、次々と紙が落ちていく様子は綺麗で見入ってしまいますが、紙が空間を切り裂く音は冷たく、どこか残酷です。
低い轟音が時折、静かな空間に鳴り響き、不安な雰囲気を冗長させます。
無数の紙が、押し出され落ちていく様子は、そことなく「死」を連想させます。
私たちの命には限りがあります。定期的に押し出されていく紙のように、私たちもいつかは死を迎えます。その運命に抗うことはできず、世界では毎日無数の人々が亡くなっていくのです。
けれど、その一方で、数えきれない生命もまた日々生み出されていきます。
この「FORCE」の空間には、もう一つ展示があります。
無数の電球の集合体。光が強く弱く波打ち、蠢く。
この無機質な空間の中で、その光はあたたかく、心をほぐしてくれます。しかし、触れそうな距離まで近づくことのできるその電球は、今にも割れてしまいそうで、不安も駆り立てます。
ガラスでできた電球は、もろく不安定。生まれたての生命のように、無防備です。
先行きの見えない現実に放り出され、それでもかろうじて生き延びる私たちのようでもあります。
2.after that
重いカーテンをくぐると、その闇の濃さと部屋を駆け巡る鮮烈な光に目が眩みます。
パックンのような無数の白い影が、四方の壁一面を駆け回っているのです。
せわしなく動くその姿は、ちょっと楽しげ。魚のような、小動物のような、謎の生き物にも見えてきます。一秒たりともじっとしていません。
この仕掛けの正体は、部屋の奥にあるミラーボールです。小さな円盤と時を刻む針。時計のようなこの円盤が集まり、ミラーボールとなって、無数の白い影を生み出しているのです。
この光の群れの衝撃が和らいでくると、小さなシャカシャカという音が聞こえ始め、だんだん空間を埋め尽くしていきます。
ミラーボールの数えきれない針が織りなす、時をきざむ音。
光がめぐるこの静かな空間で、この小さな音だけが凄みを持って迫ってきます。
楽しかったさっきまでの気持ちが陰り、
この空間でただ独り、その無数の音に自分が対峙していることに気づくのです。
ここは、もしかしたら、「人間」がいなくなってしまった世界なのかもしれない。そんな気もしてきます。
私たちがいおうがいまいがかまわず、この世界には新たな「何か」が生じ、別の時間を生み出していく。
そこに希望がある一方で、電気がその源であるという事実が、また矛盾をはらんでいます。
電気は有限です。この文明の名残りには、いつか終わりがきてしまう。そうすれば、この愛おしい空間は再び静寂へと戻ってしまうのです。
3 Pause
細長い通路に響く、踏切や電車の音。
「Force」と「After That」のインスタレーションを通して、非現実的な世界に潜っていった意識は、どこからともなく聞こえてくる「音」によって引き戻されます。
日常的になじみのある音のはずなのに、実体のないこの音は、どことなく厳かです。
これから、何が始まるんだろう。
そんな不安と期待がせめぎあいながら、次のゾーンへと足を踏み入れます。
4 「丁寧に生きる」
穏やかな日光の光と、交互に並んだ6個の木枠のショーケース。
予想に反して広がる、あたたかく静かな空間に、思わず足をとめてしまいます。
これまでのインスタレーションに比べると、身体的な刺激は多くありません。けれど、一つ一つの作品とじっくり向き合える、豊かな時間がこの空間には広がります。
まず、目に入るのは、壁にかかげられた一枚のスクリーンプリントです。
白い紙に、真っ青のしぶきがほとばしる。
円が乱れたそのしぶきの中には、アルファベットの文字が書き込まれています。
「Harder,Better,Faster,Stronger」
「より熱心に、よりよく、より早く、より強く。」
それは、合理性と効率性が求められるのこの世界の、合言葉。
私は、この言葉をみてはっとしました。
進化をただ、早急に求めるこの言葉は、常に私たちを縛っています。その響きには圧迫感がありますが、言語化され、目の前に提示されることで、心がふっと軽くなったのです。
心がほぐれたのを感じながら歩を進めると、「らせんの練習」に出くわします。
コンパスのような小さな装置にとりつけらたシャープペンの芯が、細い円を描き続ける。
その動きは、段差に多少ぶれても、繰り返し円を描き続けます。ただ、その軌跡となる円はまったく同じではありません。円の軌跡はわずかにずれているのです。ちょっと分厚いその線は、繰り返し描かれたであろうその痕跡が伺えます。
「らせんの練習」と名付けられたこの展示は、作品のテーマでもあります。
私たちは、そして私たちの社会は、望もうと望まないと、以前の状態にとどまることはなく、日々新しい何かに変わっていく。
「らせん」は一直線の矢印ー進化とやや異なります。
それは、同じことを繰り返しているようでいて、微修正を加え、違うものに変わっていく、私たちの営みとも言えるかもしれません。
それを、プラスの変化にするか、マイナスの変化にするかは、私たちにかかっている。
「練習」という言葉には、そんな意味も込められている気がします。
また、私たちの営みは、円のように安定的な構造ではなく、プラスにもマイナスにも転び得るゆらぎをはらんでいます。
続く一連の展示ー「現在地」「地震」「トンネル」は、私たちがゆらぎの中で、再生をしていく過程を示してくれているようにも受け取れます。
安定した枠組みの中に、離れて立つ数々の「点」
ー「現在地」
断層のように、スパッとずれてしまったケース
ー「地震」
混沌とした不思議な軌道で回る楕円のなだらかな動き
ー「トンネル」
私たち個人は、様々な距離で他者とつながっています。夫婦、家族、親子、恋人、友人、同僚、知人。そして、様々なつながりが集まり、集合体となって社会を築きます。また、その中で、私たちは自分の立ち位置を作り上げていきます。
その関係や立ち位置は常に安定的ではなく、何かのきっかけで崩壊しうるものでもあります。安定的な関係や、確固たる社会はないのです。また、私たちは繋がっているようでいて、孤独です。
けれど、たとえ破壊や崩壊が起こったあとも、必ず何かは再生します。とりとめなくぐるぐるまわる、混沌の中でもがくうちに、私たちは一定の軌道を見つけ、新たなものに変わることもできるのです。
そして、「Force」で相見えた装置がただひとつ、「具体的な関係」として、再登場します。
その動きはおどろくほどゆっくりで、なかなか紙は落ちません。
「Force」では紙が次々と落ちる様子に、あっけなく散ってしまう一人一人の「死」を重ねてしまいました。けれど、その装置が一つになると、その時間は無限にも思えるほど、長く感じるのです。
私たちは、主観の中で生きています。生に必ず終りはくるものですが、その時間は、私たちが生きるこの瞬間は、濃密で豊かなのです。可能性は無限にあります。
時間は有限であり、無限でもある。
最後に、区切られたケースの中でゆれる、二つの電球ー「完全な関係」が登場します。
私たちは、つきつめれば孤独です。他者と完全につながることはできない。けれど、適度な距離を保ちながら、寄り添い生きていくことはできるのです。
「丁寧に生きる」のこの展示群は、そうした再生の一つの可能性を示唆してくれているように思えます。
何があっても、自分のペースで、丁寧に、ゆるやかに変化していける可能性がある。
自分に、社会に悲観することはないのだと、穏やかに包みこんでくれます。
このスペースをぬけると、見晴らしのいい通路が現れます。ガラス越しに広がる住宅街や道路、川のせせらぎ。
変わらずそこにある、日常の風景にほっと息をつきながら歩を進めると、今度は無機質な高音のモノラルサウンドが響いてきます。
この不思議な音によって、現実や日常に向いた意識が、再び抽象的な深層世界の中に誘われていきます。
6 「cross fades#1」
豊かにあたたかく広がった世界は消え、「無」の空間が現れます。
ただただ白い、無音の空間。
無機質で、冷たい印象さえもある部屋の奥に、一枚の白い紙がかかっています。
近づくと、小さなルーペが音もなく紙の上を回っていることに気づきます。
そして、そのルーペを覗くと、数字の羅列ーπが現れるのです。
何もないと思っていた場所に、何かが現れる。頭をぶん殴られたかのような衝撃がありました。
「異化」ー自分の固定観念がひっくり返され、まったく違うものに変わる感覚。
この無限につづく円周率に、世界の未来がつまっている。
けれど、私たちが見落としているものが多くあるのです。
7 Quantize#7
揺さぶられ、はじけた思考が、やわらかくなる。
「crossfade#1」が思考の世界であるならば、「Quantize」は感覚の世界。あたたかくやわらかいその空間は、遊戯性にとんでいます。
誰もいないのに、たなびくカーテン。
しずくの音にあわせて、点滅する傘のようなライト。
無機物で構築されたこの空間は、やわらかく、心を軽やかにしてくれます。
創造することの楽しさを、追想させてくれるのです。
8 「crossfades-Torch-」
再び現れる白い空間。けれど、「crossfade#1」にはなかったあたかかさとユーモアがここにはあります。
部屋の奥のスクリーンに近づくと、自分自身のシルエットが鮮烈に浮かびあがるのです。
自己の再発見。
この世界には、私がいて、あなたがいる。
私たちが、まだいる。
スクリーンに近づくと、シルエットの中に、円周率が浮かび上がります。
世界の可能性が無限であるように、私たちの可能性もまた無限なのです。
9 「Crossfade#4」
展覧会の最後は、高揚した心を静めるように、多数のスクリーンプリントの展示で締め括られます。円周率は、くずれ、やぶれ、焼かれ、色や配列を変え、様々な形で立ち現れます。
世界が、ゆるやかに上昇していくには、私たちの思考が必要です。
例えば、繰り返される負の歴史を私たちは修正していかなくてはいけない。
それは、決して生易しいことではないけれど、その覚悟を私たちは持たなくてはいけない。
このスクリーンプリントをくぐりぬけると、私たちはふたたび、展覧会の始まりの地点に戻ってきます。
けれど、戻ってきた私は、以前の自分と同じ位置には立っていない。
異なるフェーズに舞い降りているのです。
「らせんの練習」ーそれは、どこに到達するかは分からないけど、ゆるやかに上昇していく「らせん」を目指す動き。
私たちには、有限の時間の中で、無限の可能性が開いています。
そして、世界がゆるかに再生できるかどうかは、私たちの肩にかかっているのです。