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【短編】 鹿狩り

※警告!!:原始的な手法による狩猟・解体に関する残酷な描写が含まれます。また、今作は「架空の世界を描いたファンタジー小説」であることを念頭にお読みください。

 私が双眼鏡を覗くと、森の中でくくり罠に片方の前肢を捕らわれ、逃れようと跳ね回っては引き戻され転げ回る、不運な牝鹿の姿を確認できた。
「何が掛かってる?」
今日の指南役のブラッド氏が、私に問うた。
 私は、この御仁とは赤子の時から付き合いがある。そのため、私にとっては もはや実の伯父であるかのような存在で、彼からの問いに対し、私は両親に話すのと変わらない口調で答えた。
「牝鹿だ。……若いと思う。2年目か3年目……」
「よっしゃ!!……なら、はらんでる仔っこも戴きだ!」
まだ雪が残る春先に狩った牝鹿というのは、2歳を超えていれば、まず間違いなく孕んでいる。そのはらの、仔と共に在る「胎盤」というものには、凄まじいまでの滋養と薬効があるとされるが……私は、それを食したことは無い。
 私は、自分が覗いていた双眼鏡を、側で控えていた弟に手渡した。彼にも獲物を見せたかった。
 弟は、罠に掛かった牝鹿を見るなり「すげぇ!」と声を上げた。
 今日は、この弟アイクに狩りを教えるべく、私と、父の盟友でもある狩人のブラッド氏が同行した。私は鹿狩りなど すっかり慣れているが、ブラッド氏一人に弟を任せるのは心配で付いてきた。アイクは、つい数ヵ月前に我が家の養子になったばかりで、ブラッド氏と会うのは、これが3度目だ。危険と隣合せの狩場かりばに、そのような浅い関係の2人だけで行かせるのは無茶だと判断した。
「どうやって仕留めるんだ?ここから、頸を打つのか?」
アイクは、私や父が猟銃で何かを撃つ姿を見るのが好きだ。今も、目を輝かせている。
「さて、どうしようか……」
いつものように私が撃つところを見せてやってもいいが、そろそろアイク自身にも「獣をたおす」という経験をさせてみたい。
「側まで行って殴ってから……猟刀で頸を切ってみるか」
12歳のアイクには、まだ銃を持たせるわけにはいかない。この国で銃を持つことが許されるのは、然るべき訓練を受けた18歳以上の成年者のみだ。
っこで、やるのか?……待ってろ。出してきてやる」
ブラッド氏は、3人で乗ってきた自動車の元へ引き返し、荷台を開けて狩猟用の棍棒と縄を取り出した。棍棒は、獲物の血で錆びることの無い隕石いんせきこうで造られたものである。鉄よりは軽いが、重みと硬さは充分だ。(その気になれば、人をも撲殺できるだろう。)
「ほらよ。……ぶっ叩くのは、カンちゃんがやるかい?」
「お任せください」
私は、迷わず棍棒を受け取った。
「……じゃあ、切るのは坊主か。大役だな。出来るか?」
「俺、大抵の魚、められるよ」
「そりゃすげぇな!さすが、漁師町の子だ!!」
アイクの故郷は確かに漁師町だったが、つい半年前の隕石落下によって消滅している。その災厄によって孤児となった子を養子に迎えた家は、きっと国じゅうに在るだろう。

 私は、水が飲めず弱ってきた牝鹿が地面に へたり込んだのを確認してから、借り物の棍棒を手に、やや大回りをして獲物に忍び寄った。
 私が歩き出す瞬間に、ブラッド氏がアイクに「よく見ておけよ」と言ってから「おまえの姉さんは、恐ろしいぞぉ……!」と笑ったのが聴こえていたが、私は気に留めなかった。
 軍人あがりの私は、そのような軽口には慣れている。

 私が一撃で牝鹿の頭骨を叩き割るところを、弟は双眼鏡で見ていたはずだ。
 男達2人は、気配を消すこともなく堂々とやぶを抜けて走ってきた。獲物の心臓が動いているうちに血抜きをしないと、肉や臓物の味が悪くなる。
 しかし、魚を締めることには手慣れているアイクも、いざ四つ足の獣を斃すとなると、隠しきれぬ躊躇ためらいやおそれを見せた。私や父が獲物の頸を切る様を何度も見てきたはずであるが、今は すっかり動揺して、切るべき位置を失念したようだ。
 獲物の肩に膝を着いて前肢を押さえ込んでいたブラッド氏が、指で牝鹿の頸を なぞり、血管の位置と切り方を教えてやる。
 アイクがそれに従うと、既に鼻の穴から多量の血を流していた牝鹿の、頸からも鮮血が ほとばしる。
「よくやった、坊主!巧いぞ!」
アイクは何も言わず、血の噴き出る牝鹿の頸から目を離さない。
 後肢を押さえていた私は、獲物の筋肉の痙攣が止んだのを感じたら すぐさま立ち上がり、アイクにも、獲物から離れるよう指示した。ここから先は、本職の狩人に任せるのが最良だ。
 腰の猟刀を抜いたブラッド氏は、まるで蔬菜そさいを切るように、罠に掛かったままの前肢を関節部で切り落とし、肩に担いできた縄を2本の後肢に きつくゆわえつけたら、手近な木に屠体とたいを吊し上げる。
 土の上に、夥しい量の血が落ちる。腸詰めに使えるよう、バケツにその血を取るのも悪くないのだが、今日はそれをしない手筈だ。アイクには何度も水汲みをしてもらわなければならないはずだし、皮剥ぎと解体の手順を覚えるだけでも子どもには難しいだろうから、血の利用法を伝えるのは、次の機会を待つ。(バケツに採った血というのは、かき混ぜ続けていないと固まってしまう。それだけで、一人の両手が塞がる。血の匂いを嗅ぎつけた狼や熊に狙われるかもしれない山中では、なるべく避けたいことでもある。)
 ブラッド氏に「車を持ってきてくれ」と頼まれた私は、彼の自動車の元まで歩いていって、それを鹿が吊されている木の出来るだけ近くまで移動させたら、背板と背負い紐の付いた廃棄物運搬用の桶と、獲物の背骨を叩き割るためのなた、臓物の口を縛る糸、それを切るはさみ、水汲み用のバケツ2個、その他、思いつく限りの必要な品々を降ろす。

 屠体の頸から血が落ちてこなくなったら、腹を切り裂いて臓物を取り出し、仔が入っている袋以外は全て、一つの桶にぶち込んでしまう。それらは、後で川の淵に棄てる。(棄てに行くのは私の役目だろう。)仔の袋は、中の水が抜けないように口を糸で きつく縛り、車に積んである氷を詰めてきた金属製の箱に速やかに入れる。(それをするのも私である。)仔の袋は非常に高く売れるため、丁重に扱う。
 首と四肢を切り落として皮を剥ぎ、二つに割った鹿の『枝』は、多量の水で洗わなければならない。そこでやっと、アイクは水汲みを、私は臓物と四肢と首を棄てる仕事を命ぜられる。私達が川に行って戻ってくるまでに、ブラッド氏は毛皮の処理に着手する。

 私達が食べる『枝』を分けてやるわけにはいかないので、食わない部位を、山の獣に分けてやる。(分けてやれるものが無ければ、喰われるのは私達かもしれない。)それを川近くの茂みの中にぶちまけた時、辺りには既にカラスが集まっていた。
 カラスに やったものを入れていた背負い桶を、川の水でよく洗い、それにも水を汲んで持ち帰る。
 水を汲んだバケツを両手に持っていたアイクが、突然それを地面に置いた。
「腕が痛いよぉ……」
「もう少しだ。頑張れ」
「俺も、背負い桶が欲しいよぉ」
「小遣いを貯めて、買えばいい」

 私達が持ち帰った水を、ブラッド氏は ばしゃばしゃと『枝』に ぶっ掛ける。
 水場と解体の場を3往復して、やっと肉屋に持ち込めるほどにまで『枝』を清潔にできたら、半身ごとに油紙で包んで丁重に自動車の荷台に積み込む。氷を詰めた革袋を、在るだけ肉の上に乗せる。
 必要最低限の脂取りを済ませた毛皮も、ざっと丸めて積み込んでしまう。こちらは、ブラッド氏が自宅に持ち帰ってなめすのだ。毛皮も、大切な収入源だ。


 ブラッド氏の運転で町へと引き返し、狩人たち行きつけの肉屋の裏に車を停めた。私とアイクは車の側で「待っていろ」と指示され、ブラッド氏一人が店内へと消えていく。しばらくして、彼に呼び立てられ店から出てきた店主によって、荷台の『枝』と仔袋こぶくろの値踏みが行われる。
 いくらで買取ってもらえるかが判ったら、ブラッド氏は「ももだけは2本とも 持ち帰らせてほしい」と言い、買取金額からその分の料金が差し引かれると共に、『枝』は肉屋の清潔な設備の中で更なる解体が行われることとなった。
 川の水と粉石鹸で洗ってきたとはいえ、血や土で体が汚れた私達は、肉屋への立入りを許されず、主人が2本のももを手に再び出てくるまで待機と相成った。
 待っている合間に、店番らしき若い女性が金を渡しに来てくれた。ブラッド氏は、受け取った紙幣と硬貨の数を確認し、店主から聴かされた額に相違ないことが判ると、何故か彼女と握手を交わした。
 彼女が店内へ引っ込むと、ブラッド氏は「ほらよっ」と言いながら、金貨を2枚アイクにやった。
「坊主、今日は よく頑張ったからな。小遣いだ!」
「あ、ありがとう……」
そして、彼は私にも最高額の紙幣を2枚くれた。私は、すぐにそれをポケットに押し込む。(狩場に財布など持参しない。)
「親父には黙っとけよ?」
彼の取り分が非常に多いが、最も重要な仕事を担ったのは彼である。不服は無い。
「ありがとうございます」

 肉屋での用が済んだら、私とアイクが暮らす家までブラッド氏が送ってくれた。私達は丁重に礼を言ってから車を降り、後部の排気口から白い灰を吹き出しながら走り去るそれを、角を曲がって見えなくなるまで見送った。
 私が、油紙に包まれた骨付きの腿肉を1本肩に担いで裏庭の門扉を開くと、全身 真っ黒の可愛い『弟分』が駆け寄ってきた。アイクが故郷から連れてきた飼い犬・ドンだ。今は、我が家の良き番犬である。(基本的には裏庭で放し飼いにして、夜だけは家の中に入れてやる。)
 息を弾ませて舌を出し、尻尾を振り回しながら、まっすぐに私の脚元へ駆け寄ってきたドンは、狩りで汚れた靴の匂いを熱心に嗅いでから、アイクにも申し訳程度に挨拶をした。本来の「主人」はアイクだが、今は肉を担いでいる私の側を、離れたくないようだ。庭を突っ切って裏口へと向かう私に、ずっと付いてくる。狼の仔が、狩りから戻った親が肉を吐き戻すのを待っているように、しきりに鼻を鳴らし、黒い瞳を輝かせて私を見上げている。
「まだだぞ」
肉を削いだ後の骨なら、齧らせてやろう。
 利口なドンは、扉が開いたからといって、無断で家の中に駆け込んだりはしない。家族の誰かの許しを得るまで、自身の「縄張り」から出ることは無い。(敷地の外へ出かける時も同様で、人が引き綱を付けて連れ出さない限り、ドンは必ず庭に居る。勝手に塀を跳び越えたり、抜け穴を掘って脱走したりといったことは、絶対にしない。)
 今も、尻尾を垂らして緩やかに振りながら、大人しく私達を見送っている。

 あまりにも賢い犬なので、近所では「相当な良血に違いない」と評判で、自分の犬にドンの仔を産ませたがる人も居る。(元は迷い犬なので血統書など存在しないのだが、体型と知能から察するに、軍用種の血を引いている可能性が高い。)
 私の父は、そのような 仔を欲しがる雌犬の飼い主達から 少しばかりの金を取り、密かにドンを連れ出しては、どこかで種付けを させているようだ。
 いずれ、この街の あちこちで、ドンの血を引く仔犬達が生まれてくるはずである。

 裏口から自宅に入って台所へ行き、肉の調理を母に託したら、私とアイクは交替でシャワーを浴びた。血生臭い身体を、念入りに洗う。国境警備の戦場で人の血を浴びていた頃に比べれば……このくらいは、何でもない。今はただ「美味いものを手に入れた」という喜びと、「誰も怪我をしなかった」という安堵があるだけだ。

 私が浴室から出て居間へ行くと、先に入浴を済ませていたアイクが、3人掛けの柔らかな長椅子で寛ぎながら、赤い顔をして水らしきものを飲んでいた。私も、食器棚からカップを取り出し、食卓に置かれたままの水差しから水を注ぐ。
「今日は、お手柄だったな」
と、弟に言いながら、充分に間隔を開けて同じ長椅子に座った。互いに、まだ髪が湿っている。
「切ってみて、どうだった?」
「どうって……」
アイクは、カップの中に視線を落とし、しばらく考え込むような素ぶりをしてみせた。
「切った後すぐは……『俺は、生き物を殺した』って実感が、凄かったんだけどさ。ブラッドの おじさんが、皮を全部剥いだ瞬間……『美味そう!』としか、思わなくなっちまった。腹が鳴ったよ」
「そうか」
彼には、狩人の素質がある。将来有望だ。
「おじさんは金貨をくれたし、ドンも母さんも、あんなに喜んでた……。俺、嬉しかった」
「あぁ、そうさ。おまえは今日、立派な仕事をしたんだ。誇りを持てよ」
「えへへ……」
アイクは、貰ったばかりの金貨をポケットから取り出し、満足げに眺めている。養子に入ってすぐに父が貯金箱を買ってやったはずだが、そこには入れなかったようだ。
「つまらないことに使うなよ?」
「サーヤに、何か買ってやろうかな。焼き菓子とか。……それで、俺も一緒に食うんだ」
「そりゃあ良い」
子ども2人で、存分に楽しんでもらおう。
「そういえば、サーヤはどこに居るんだ?」
「また、店の入り口で待ってるよ」
「好きだなぁ……」
 この家は、私達の父が営む時計屋と棟続きになっている。住まいと店舗を仕切る扉には、子どもには届かない位置に鍵があり、幼い子が勝手に店舗や工房内に立ち入れないようになっている。悪戯や、部品の誤飲を防ぐためである。
 アイクの実妹であり、今では私達の妹でもあるサーヤは、私の実姉キリに、たいへん懐いている。姉が、父と共に時計屋の仕事に かかりきりになっている間、サーヤは その鍵のかかった扉の付近で一人遊びをしながら、大好きな姉の帰りを待っている。私や母が時折 様子を見に行って、少しは一緒に遊んでやることもあるのだが、彼女は、今は他の誰よりもキリが好きらしい。……私には、あんな奇人のどこが良いのか、さっぱり解らないのだが。
 私の姉は、人よりも機械類が好きであり、男ではなく天体望遠鏡に恋をしているような“変質者”だ。天文学者達のようにそらに惹かれているわけでもない。本当に、ただ純粋に「望遠鏡そのもの」に惚れ込んでいる。……奇人だ。何度でも言ってやる。

 私は、水を飲んでから小さな妹の様子を見に行った。例の扉へ通じる廊下に座り込み、古新聞を熱心に折り畳んでいる彼女の周りには、既に いくつかの「作品」が散らばっている。
 一枚の紙を幾度も折り、鳥やら馬やら船やらと、様々な形に作り変える不思議な技を、姉がこのサーヤに伝えて以来、サーヤは ずっと その遊びに夢中になっている。毎日こうやって床の上で紙を折り、その日に何を作ったか、仕事終わりの姉や父に見せるのが、今の彼女にとっては何より大きな楽しみなのだ。
「サーヤ。今は、何を作っているんだ?」
作品の散らばる床に しゃがみながら問うた私の声に、彼女は手を止めた。そして、作りかけていたそれを手に取ってから、私の身体に触れようと、空いているほうの手を伸ばした。
 私は、腰の古傷のために あまり長い時間しゃがんでいられない。サーヤの小さな手が私の肩に触れる頃には、私はもう床に尻を着き、右脚を投げ出していた。
 彼女は私の肩に触れるなり、すぐに抱きついてきた。そして、作りかけの物を私に手渡そうとしているように思えたので受け取ってやると、満足げに笑顔を見せた。それが何なのかという、私の問いには答えてくれなかったが、私には、作りかけの鳥に思えた。
 器用な子だ。

 私の休暇が今宵で終わりであることを、サーヤも知っている。私は、明日には自身の仕事場に戻らなければならない。我が一族が代々仕えてきた、ワイルダー家の天文台である。その名が示す通り、天文台は荒野の只中に在る。人里の灯りが一切届かない漆黒の闇の中で、ワイルダー家の学者達は先祖代々そらを観てきたのである。
 その天文台で【守衛】となることが許されたのは、数百年来「特定の家系」の「男子のみ」であったが、我が父は史上初めて女の私が守衛となることを許した。だが、それは現在のワイルダー家 当主が直々に「カンナ・ジングレンを守衛として雇用したい」という書状を下さったからに他ならないだろう。
 私との、しばしの別れが惜しいのか、サーヤは珍しく姉ではなく私に くっついている。私はその小さな背中を撫でてやりながら、今宵の主菜は私達が獲ってきた鹿の肉であることや、アイクが今日いかに重要な役目を果たしたかを聴かせてやった。
 この子は目が見えず、口が利けない。そのために、故郷の孤児院に居た頃は、腹を空かせた悪童たちに貴重な食事を盗られてばかりであったという。(兄のアイクは、そのたびに盗っ人どもを殴ってやったというが、やがて痺れを切らし、妹を連れて孤児院から抜け出したのである。)
 最近になって、他者のてのひらや背中に指で文字を書くということを覚え始めた彼女は、私の背中に自分の気持ちを書いた。
【ドンにも おにくを あげたい】
「母さんに頼んであるよ。犬は、骨を齧るのが大好きだから……『骨付きで やってくれ』って、言ってある」
私の答えを聴くと、再び何かを書いた。
【わたしが あげる】
「そうかい?……じゃあ、母さんに言わないとなぁ」
ドンが ボリボリと骨を齧る様子を、耳で楽しむのも良いだろう。
 いずれにせよ、ドンに餌をやるのは、私達の食事が終わってからだ。犬が人より先に食事にありつくなど、あっては ならない。

 閉店の時刻となり、父と姉が店じまいをしてから自宅側へ帰ってくる。サーヤが心待ちにしていた瞬間だ。私から離れ、すっと立ち上がり、壁に片手を着けて、姉が近くまで来るのを待っている。姉は、サーヤに呼びかけてから抱き寄せた後、廊下に座り込んだままの私に「あら珍しい」と、まるで私まで子ども扱いするかのような口ぶりで言った。どうもしゃくに障る。
 父は、私達には構わず「今日の晩飯は何だろうな」と大きな独り言を言い、凝り固まった肩を交互に掴んで回しながら居間へ向かって歩いていった。

 家族6人での夕食の間、両親も姉もアイクの健闘を褒め称え、今後も精進するようにと期待をかけた。誇らしげに紅潮させた顔で「早く銃を持ちたい」と応じたアイクに、父は「近いうちに弓矢の扱いを教える」と約束した。
 いずれ、弟は弓矢に加えて剣を持ち、独りで獲物をたおして捌くようになるだろう。そして、そう遠くないうちに、それらの武器を用いた「ならず者との戦い方」を、学ぶことになるだろう。



 翌朝。家族に しばしの別れを告げ、主の待つ天文台へ向かう。
 母に持たされた金属製の弁当箱を助手席に乗せ、明確な道路が存在しない荒野を ひた走る。とはいえ、たかだか数時間の道のりだ。昼食は要らない。飲み水と、僅かばかりの氷砂糖があれば充分だ。

 荒野の只中にある天文台は、今や国家の【聖地】と言っても過言ではなかろう。
 その裏手に、十数年前に父が建てた車庫がある。私は、そこへ車を停めてから玄関へ回る。
 砂塵避けに造られた3段だけの石段を上がり、木製の厚い扉に付けられた銅製の輪を、ひとまず3回扉に打ちつけて音を鳴らす。(運び屋の老人や、私の主は、いつも この輪を使わず素手で叩いている。)
 すぐに気付いて扉を開けてくださった主に、私は丁重に頭を下げる。
「只今、戻りました。……先生」
「おかえりなさい」
共に旅をした頃は「ラギ殿」とお呼びしていたが、正式に【守衛】として召し抱えて頂いたのを機に「先生」とお呼びし始めた。(私の父も、それまでは「坊ちゃん」と呼んでいたのを、あの偉業を境に「先生」と改めたのである。)
 玄関から居間へ進むと、干したキノコを使った麺料理のような匂いがした。昼食用に、主が自ら腕を振るわれたようだ。
 私は、持参した弁当箱を差し出した。
「今宵のさいにと、母より預かりました」
「なんと!」
主は、それを丁重に受け取り、食卓に置いてから蓋を取った。そして、中を見るなり「おぉ!」と感嘆の声をあげた。
「アイクが仕留めた鹿を使いました」
「鹿の肉を、揚げたのですか。ご馳走ですね」
 主はその後、私の家族の近況について、ささやかな事を幾つも尋ねた。特に、アイクとサーヤの健康状態や成長に、強い関心を持たれているようだ。

 その夜。母が揚げた鹿肉を主菜とした夕食を摂っている時だった。普段どおりの、2人きりの静かな食卓で、主が おもむろに切りだした。
「ひとつ……お願いしたい事があるのです」
「何でしょうか?」
「ドンの仔が、無事に生まれたら……一頭、譲っていただきたいのです」
この天文台を滅多に離れない主が、いつ、誰から、そんな話を聴いたのだろうか?
「……雌雄、どちらを ご希望ですか?」
「できれば、雄が良いですね。……良い番犬になるでしょうから」
私も、それは非常に良い考えだと思った。今のところ、この天文台の守衛は私一人だ。ドンのように強く賢い番犬が居れば、心強い。特に、我らが糧を育む大切な畑を鳥獣害から守るには、大きな犬に見張らせるのが最良だ。
「分かりました。……生まれたら、頃合いを見て、良さそうな仔を選びに行きましょう」
 私の答えを聴いた主は、口元を拳で隠しながら、いかにも幸せそうに「ふふふ」と笑った。
「どうされました?」
「いえ……。まるで、養子を迎えに行くようで……昔のことを、ふと思い出しました」
今は亡き御父上や、離れて暮らす御母上との思い出は、主にとって、柔らかな笑みと共に涙が浮かぶほど、真に尊いものなのだ。

 この家に迎えられる仔犬は、きっと幸せになるだろう。

 【終】

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