小説 「僕と彼らの裏話」 14
14.隠れ家
先生宅から車が無くなり、1ヵ月近く経った。
ある時「吉岡先生には、ご内密に」として、哲朗さんからLINEが来た。
なんと、近日中に僕の家に泊まりたいのだという。具体的な日時も、理由も、書かれていない。
【お一人で、ですか?】
ひとまず そう返信し、自分の仕事に戻った。
直感的に、悟くんが一緒に来るかもしれないと思った。
しかし、結局は哲朗さん一人が、家族には「姉が腰を傷め、代わりに自分が義兄の世話をしなければならない」と嘘を言って、僕の家に『避難』してきた。(本当に そちらの家に身を寄せることも度々あって、今回は、姉夫婦も口裏を合わせてくれているという。)
彼は、人事異動をきっかけに体調が ひどく不安定になってしまい、月単位での休職を考えるほどだというけれど、今は怪我による休養から復帰したばかりで、また「自宅に営業部長が居る」という状況を前に、なかなか それを家族に話せないのだという。(彼は義両親と同居しており、義父は勤務先の営業部長である。)
哲朗さんは、病院で会った時のほうが、むしろ顔色は良かった。
「確か……お義兄さんも、同じ会社の方ですよね?」
「そうです……」
だからこそ、今は そちらに行きたくないのだろう。そして、先生宅の和室が空いていれば、彼は僕の家など選ばなかっただろう。
「こんな、むさ苦しい所で よろしければ……どうぞ、ゆっくり休んでください」
小汚いアパートの居間で彼に夕食を出しながら、僕は言った。
彼は恭しく頭を下げ「とんでもないです」と応え、僕が配膳を終えるのを待ってから、手を合わせて「いただきます」と言った。
僕の家には、先生宅にあるような「黒色で揃えた食器」は無い。どちらのものか分かるよう、明らかに食器を離して置いたつもりだったけれど、狭い食卓の上では限界があり、彼は食事中に、取るべき器を間違えた。僕が口をつけたほうの汁物の椀を手に取って、そのまま平らげてしまった。
僕は、何も言わなかった。
彼は、子どもの頃に頭を強く打っていて、脳機能に障害がある。複数人での食事中に「どれが、誰の料理か」を把握し続けることが難しい。だからこそ、先生宅には彼専用の黒い食器が一揃えある。(自宅にも、あるに違いない。)
彼には巧みな話術があり、文章の読み書きは天才的なまでに巧いけれど……彼は「算数」も苦手だ。小学校低学年レベルの四則演算でも、電卓が無ければ難しいという。数を数えるのも大の苦手で、編集者だった頃も文字数・行数・ページ数等のカウントは、機械に頼りきりだったという。(しかし、そんなものは僕でも機械に頼るだろう。)数列として並んだ金額の大小を正しく認識するのにも人一倍時間が かかるといい、総務部在籍とはいえ、事務や経理に関連する仕事からは外されているそうだ。(自社のホームページの管理や、書店等でのイベント開催時に運営を手伝うのが、今の主な仕事らしい。)
そのために、彼は自身を「馬鹿」と称することもあるけれど、僕は馬鹿に東洋医学は理解できないと思っている。彼は能力に著しい偏りがあるだけで、決して「馬鹿」とか「頭が悪い」とか、そんな言葉で一蹴すべきではない、優秀な人材だと思っている。
馬鹿なら書籍の編集など到底できないだろうし、何より……差別と暴力によって【どん底】に叩き落とされ、幾度となく【復讐】に燃えてきた吉岡先生の心を、何度でも深淵から引き上げ、その生命を繋いできたのは……彼なのだ。
彼は、常人には到底できない事を、根気強く、15年以上に渡って続けてきたのだ。立派だ。断じて「馬鹿」ではない。
特技でもある「校正」をする機会がまず無い総務部に移ったことで、彼は【苦手】を意識させられる場面が急増し、更には「悪い部位を酷使しなければならない」生活で、心身ともに「参りそう」だという。
食事を終えた後も、彼は珍しく悶々としていた。ずっと、僕を相手に悩み事を吐露している。
「今日くらいは、お仕事のことなんて忘れてください」
「そう、ですね……。出来ることなら……」
一泊では、難しいかもしれない。
それでも、気分転換は重要だ。
僕は、彼にテレビゲームでの対戦を持ちかけた。「脳が疲れてしまうから、ゲームをする習慣が無い」と言う彼に、僕らが小学生の頃に発売されたシリーズの最新作を見せた。(彼は僕と同学年である。)
そのシリーズの「存在だけは知っている」と言う彼を前に、僕はひとまず一人でプレイしてみせた。対戦相手はコンピューターである。
彼は、しげしげと画面を眺めている。
「今どきのゲーム画面というのは……なんだか、アニメーション映画みたいですね。グラフィックは、すごく手が混んでいて……ちゃんと、声優の声がついて……台詞があって」
「かなり前から、こんなもんですよ?」
「そうですか?私、ゲームは本当に全く やらないもので……」
「お子さんと勝負とか……しませんか?」
「うちにゲーム機は ありません」
「マジすか……」
場所が自宅だと、どうも気が緩んで物言いがフランクになる。……危ない。
「樹くん達に『買ってほしい!』と、言われませんか?」
「今のところは……無いですね」
哲朗さんには3人のお子さんが居る。僕は、全員と面識がある。
彼らは普段、どういう遊びをしているのだろう?相変わらず「外遊び」が好きなのだろうか?
「樹は……最近になって『俳優になりたい』と言い始めて……暇さえあれば、貪るように映画を観たり、感情を込めて本を読み上げる練習をしたり、してますね……『自分でアクションをやりたい!』と言って、空手の稽古も頑張っています」
「夢があるのは、良いことじゃないですか!」
僕は、ずっと画面を見ている。
「それは、そうなのですが……あいつは、アクションシーンの多い、どちらかといえば暴力的な映画を好むので……側で台詞を聴いている悟が、暴言ばかり、どんどん憶えてしまって……」
「あー……。それは……ちょっと、困りものですね」
「親としては、まだ『日常会話』すら覚えていない子に、『金を返せ!』とか『殺すぞ!』なんて、言わせたくないのです……」
「ですよねぇ……」
長男の樹くんは11歳、次男の悟くんは6歳のはずだ。自閉症の悟くんは、新しく憶えた言葉を、意味は解らずとも気に入ったら、どこででも、何度でも、繰り返し口に出す。彼は、時々 父親の哲朗さんに連れられて先生宅に遊びに来るけれど、大好きな恐竜の名前、テレビ等で聴いた台詞やキャッチコピー、駅や電車で聴いたアナウンス等を、飽きることなく何百回でも繰り返し発しながら、お気に入りの図鑑や絵本を眺めている姿を、よく見かける。彼は まだ文字に興味が無いし、他者と会話することも ほとんどないけれど、音声言語による「ことば遊び」は好きらしい。
彼が、あの調子で「死ね!」とか「ぶっ殺す!」等の暴言を繰り返していたら、親としては非常に悲しいだろう。そして、それを学校で繰り返せば他の児童とトラブルになりかねないし、教員からも あらぬ誤解を招きそうだ。
「だから……樹に、パソコンを買ってやろうかと思っていて….…それで、悟に聞かれないよう、イヤホンをして映画を観てもらおうかな、と……」
「小学生に、パソコンですか!?」
「早いでしょうか……?」
「いやぁ……?」
冷静に思い返せば、僕が初めてパソコンで遊んだのも、10歳前後だった気がする。もちろん自分専用ではなく、両親と共有だったけれど……。
「先生のパソコンみたいに、ネットには繋がないで……『作業用』に限定してしまえば、大丈夫じゃないですかね?」
先生は「ネットに繋がっていると、気が散る」「未発表の原稿を、ハッカーに盗まれては困る」として、絶対に【執筆用】のパソコンはインターネットに繋がない。(先生宅には、パソコンが2台ある。)
「そうですね……本人を、説得してみせます」
子どもとしては、ぜひともインターネットに繋いで自由に動画が観たいだろう。
哲朗さんは、僕がゲームをしているところを「見ているだけで面白い」と言って、自分では やろうとしなかった。
「あの……僕は明日休みなのですが、哲朗さんは、どうされますか……?」
彼は、画面だけを見ながら「うーん」と、小さく唸る。
僕としては、連泊していただいても一向に構わない。
「私は……明日も、仕事は休もうと思います」
「それが良いと思います」
今の彼は「仕事」という単語を口にするだけで表情が暗転するほど、疲れきっている。
子ども達の話をしていた時は、困り事の話であっても、笑顔が見られたけれど……今は、本当に暗い。心底「参っている」時の自分とか、かつての悠介さんを彷彿とさせる。
目の下の、刻み込まれたかのようなクマが、見ていて辛いほどである。
僕は、ゲームの実演を切り上げて、布団を敷くことにした。成人が寝るには早すぎる時間だけれど、彼は、すぐにでも休むべきだ。
彼は「薬を飲まないと……」と言って立ち上がり、台所で水道水を汲んで、いくつかの錠剤を飲んでいた。
布団を敷き終えて戻ってくると、哲朗さんはテレビの前で、胡座をかいた体勢のまま固まっていた。(彼の眼鏡は、無造作に食卓の上に置かれている。自分で外したのだろう。)
「布団、敷きましたよ」
返事は、無いと解っている。今、例の欠神発作が起きている。
座った姿勢を保ち、目はうっすらと開いているけれど、意識は飛んでいる。音や光には反応しないし、瞬きもしない。口元が緩んできて、よだれが垂れてくる。右手だけ、指先がピクピク動いている。マウスやキーボードを操作する時の動きが、身体に染みついているのだろう。
下手に布団まで運んだりはせず、よだれを拭くためのタオルだけを持ってきて、意識が戻るのを待つ。普段の彼なら、5分もしないうちに目を覚まし、動き出す。
しかし……今日は、長いかもしれない。
僕が どれだけ背中や手に触れても、何度声をかけても、まったく反応が無い。
ただ、穏やかな呼吸と、手指の痙攣が続くのみである。
開きっぱなしの目から涙が溢れ、鼻を伝って流れ落ちる。
口元が、何かを食べているようにモゴモゴ動き出し、やがて、眉や瞼がピクピク動き出す。何度か瞬きをする。
それでも、僕の呼びかけには応じない。「握ってみてください」と言った手が、握り返されることは無い。
僕の脳裏に「救急車」の3文字がよぎる。
それとも、まずは吉岡先生に電話してみようか……。あの先生は、彼が「長い時は30分以上 動かない」ということを、ご存知だ。
その時に、どう対処したのか……訊いてみたい。
僕が、いよいよ自分のスマートフォンを手に取った時、やっと哲朗さんが動き出した。「うっ……!」と声を漏らしたかと思うと、明確な意図をもってタオルで顔を覆い、落胆したように、ため息をついた。
「哲朗さん……!?」
「いや……すみません。固まっていましたね……」
タオルから顔を上げ、眉間に深い皺を寄せながら、さも呆れたように言う。
「結構、長かったですよ。10分くらいでした……」
「そうですか……」
彼は、再び ため息をついた。
「布団、敷いてありますよ」
「ありがとうございます……歯を磨いてきます……」
それだけ言うと、彼はゆっくりと立ち上がり、荷物を漁って歯ブラシを取り出してから、洗面所へ消えた。
僕も、着替えて寝ることにした。普段なら、歯を磨く時に眠剤も飲んでしまうのだけれど……今日は、まだ しばらく飲まないでおこう。
彼が ちゃんと布団の上で寝入るまで、起きていよう。
狭い寝室に、どうにか布団を2枚並べて敷いてある。僕も歯を磨いてから寝室に入ると、片方は既に哲朗さんが占領していた。布団の上に座って、足を揉んだり、肩を回したりしている。
その後、互いに「おやすみなさい」と言って、照明を消し、並んで横になる。
彼はすぐに入眠できたようで、僕が薬を飲むために起き出して動いていても、そのまま寝息を立てていた。
真夜中に一度だけ、彼が「そんなことは、黒帯を取ってからにしなさい!」と寝言を言った。
次のエピソード
【15.師範】
https://note.com/mokkei4486/n/n096c41689419