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小説 「僕と先生の話」 26

26.片鱗

 翌日。松尾くんは、今日も和室の隅でぐったりしている。午前中は、特に調子が悪いらしい。
 先生は毎朝、ご自分が起床したら、彼を起こして布団を畳んでしまうのだという。そして、2人で朝食を摂ったら、アトリエに篭ってしまわれるらしい。彼は、1階か2階で自由に過ごしているけれど、やはり寝転がっている時間が最も長いようだ。
 和室の床の間には、先生の絵本が積み上げられている。昨日までは無かった。「退屈したら読みなさい」ということだろうか。

 午睡の後、先生は「お猿さんを見てくる」と言って、一人で出かけてしまった。行き先は、あの動物園に決まっている。
 松尾くん一人だけを残して買い出しに行くわけにもいかず、だからといって、安静が必要な彼を連れて行くわけにもいかない。とりあえず冷蔵庫の中身を見ながら、夕食の献立を考える。
 冷凍野菜とサバ缶に頼るしかない。
 念のため、彼にサバが苦手ではないか訊いておきたかったけれど、昼食後、リビングで座布団を枕にウトウトしていたはずの彼は、いつの間にか居なくなっていた。和室に戻ったのだろう。
 僕は、独断でサバを使うと決めた。

 夕方、先生が大きな枕を小脇に抱えて帰ってきた。動物園で猿の観察をした帰りに、松尾くん用に新しい枕を買ってきたのだという。先生は、帰宅するなり、それを和室の彼に手渡していた。
 夜、彼はサバ缶を多用した夕食を、何も言わずに完食した。料理のことだけではなく、本当に何も話さなかった。しかし、そのことについて先生は特に言及しなかった。


 その後、彼は最低限の挨拶や返事だけはするけれど、ほとんど発話をしなくなった。とはいえ、特に何も問題はなく、平穏な日々が続いていた。相変わらず目眩の発作が続いている彼は、先生に買ってもらった枕を気に入ったようで、就寝時だけではなく日中も使っていた。横向きに寝るための枕らしく、それを使って寝転がった状態でテレビを観たり、自宅から持ち込んだ漫画本を読んだりしている姿を、よく見かけるようになった。
 時折、先生が車で彼を自宅や病院に連れて行くようで、やはり耳鼻科だけではなく心療内科にも通うことになったらしい。診察室で医師に話す事柄を、先生の協力を得ながら紙に書き起こしている姿を見かけるようになった。処方された薬の種類や量についても、先生が必ず確認している。
 彼は、先生以外の人物とは会話が難しい状態に陥りつつあった。僕が不用意に声をかけると固まってしまうし、在籍中の会社の関係者や家族、友人とも、連絡を絶っているように見受けられた。

 そんなある日、先生の留守中に僕が台所の掃除をしていると、彼がやってきた。
「あの……」
久しぶりに話しかけられて、少し驚いた。
「どうしましたか?」
彼が僕よりも歳下なのは知っているけれど、同じ会社に居た頃は、彼が先輩だった。その頃の名残りで、僕はずっと彼には丁寧語で話している。
「坂元さん……下の名前……『テツロウ』ですか?」
「僕は、稔ですよ」
「この家……他に、誰か……来ますか?」
「時々、出版社の人が来ますよ。その人が、岩下哲朗さんといいます」
「あ……」
疑問が解消されたのか、彼は他には何も言わなかった。
 僕の知らないところで、先生の口から哲朗さんの名が出たのだろう。(普段は「岩くん」と呼んでいるはずだけれど……。)
 その岩下さんは、3人目のお子さんが生まれたばかりで、多忙を極めている。長らく、この家には来ていない。

 台所での短い やりとりを終えたら、松尾くんは食卓の側に座った。テレビをつけるわけでもなく、ただ ぼんやりと外の洗濯物や空を眺めているように見受けられた。
 掃除を終えたら休憩にしようと思っていた僕は、彼の分も飲み物を用意して、自分の鞄から出したスナック菓子の小袋を食卓に並べた。
「よかったら、どうぞ」
彼は、黙ったまま軽く礼をして応えた。そして、いつも着けている黒マスクを外し、スナック菓子の一つを選んで袋を開けた。
 彼の口元に、殴られた跡のような内出血があった。
「ここ、どうしたんですか?」
僕は、自分の口元を触りながら、菓子を食べ始めた彼に訊いた。
 彼は、質問の意図が掴めなかったのか、答えたくないのか、黙って食べ続けている。
 僕は、再度自分の口元を示しながら「怪我してますよ」とだけ言った。彼は、しばらく黙り込んでから、小さな声で「昨日の夜、先生がキレたんすよ」と答えた。
(先生が殴ったのか……!!?)
 岩下さんは、複数回、先生に殴られたことがあると言っていた。
「何か、怒らせるような事したの?」
思わず、ため口になった。
 彼は、菓子を食べるのをやめた。
「俺……『3階には来るな』って、言われてたんすよ……。発売前の原稿、誰にも見せちゃいけないからって……。
 でも、昨日……本を返しに行ったんすよ。絵を描く部屋には入らないで、廊下で先生に渡せばいいと思って……」
「それで、殴られたの?」
「はい……」
言いつけを守らなかった彼にも非はあるけれど、殴るほどの事ではない。ましてや、療養のために滞在している友人の顔を殴るなど……正気の沙汰ではない。普段の先生なら、絶対に ありえない。
 例の【過覚醒】の状態だったのではないだろうか……。
「耳は、大丈夫?悪くなってない?」
「いつもと変わらないっす……」
「そっか」

「俺、弟さんのほうとは、何回も殴り合いの喧嘩になったことあるんすけど……先生も、キレたらヤバイ人なんすね……」
「そうだよ」
先生が短気な乱暴者であるかのような言い方はしたくなかったけれど、先生に無断で心的外傷やフラッシュバックの話をするべきではない。
 とはいえ、彼が怪我をするような事態は避けたいから、今は、彼の認識に同調してみせるしかない。
「……坂元さんは、先生に殴られたことありますか?」
「椅子を投げられたことがあるよ」
いつの間にか再び黒マスクを着けていた彼は、無言で目を見開いた。
「あの先生、忙しい時、すごく怖いから……本当に気をつけて。……無闇に刺激しちゃ駄目だよ」
僕の口からは、それしか言えない。
「俺……この家に居ないほうが、いいんすかね……?」
彼の眼が左右に揺れ始める。緊張や不安が、目眩の引き金となるらしい。
「3階にさえ上がらなければ、大丈夫だと思うよ」
 彼は固く目を閉じて、僕に一言詫びてから、食卓に突っ伏した。頭を起こしていられなくなったのだろう。
「もし、また先生がキレたら……教えてくれるかい?」
「はい……」

 その日から、彼が和室以外の場所で寝転がることは無くなった。ごく短時間なら、一人で出歩くようにもなった。
 先生のほうは、全く何も変わった様子は無かった。何事も無かったかのように、彼の通院を手助けしながら、事あるごとに手土産を買ってきた。僕も おこぼれに預かる日があった。
 僕は、先生を『危険人物』だと見なすようで「とても失礼だ」とは思いつつも、彼が一日も早く元気になって自分の家に帰れるよう、願わずにはいられなかった。


次のエピソード
【27. 逃走】
https://note.com/mokkei4486/n/ndf1f7887b186

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