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小説 「吉岡奇譚」 14

14.「お疲れ様」

 あれ以来、夫は毎晩 帰ってくるたびに玄関でひっくり返り、わめき散らしている。坂元くんや藤森ちゃんが居る時間帯でも、お構いなしである。
 アルバイトの大半が「辞める」か「盗撮犯が解雇されるまでは出勤しない」という選択をしたようで、現場は深刻な人手不足らしい。また、在籍中の従業員の間には、お互いに対する【疑惑】や【不信感】が蔓延り、亀裂が生じ、危機的状況にあるようだ。
 四六時中「盗撮されているかもしれない」という不安を抱きながら仕事に臨むのは、甚大なストレスとなる。(私も、身に覚えがある。)夫は、ストレスに起因する「やけ食い」が増えたが、身体は むしろ痩せた気がする。煙草の本数が増えているのかもしれない。
 夫の、白髪は間違いなく増えている。


 私は、現場の状況確認を兼ねて、夫の勤務先を訪ねることにした。事件など起こらなくとも、あの町工場は私にとって物語のアイデアや創作意欲の源となる大切な場所なので、創作に行き詰まった時は必ず訪れている。それは、夫が就職する前から変わらない習慣である。

 坂元くんの退勤後。すっかり日が暮れてから現場を訪ね、まずは社長に挨拶をする。もちろん、事前に連絡はしてある。
 シャッターが全開となっている現場の外で、立ち話が始まる。
「お疲れ様。お忙しいところ申し訳ない」
「とんでもないです、先生」
社長に就任して3年足らずの彼女は、まだ30代後半である。この若きリーダーは、先代までの経営者達に敬意を払い、これまでの伝統だった『工場長』という役職名の継承を辞退した。(いわば「永久欠番」である。)彼女の代になってからは、ごく一般的な名称である『社長』が用いられている。
 名称が変わったとはいえ、歴代の工場長達がそうであったように、彼女もまた、時間が許す限り現場に立つ【現場主義者】である。
 私は、彼女の経営理念と、特例子会社設立に向けた取組みに賛同し、株主としての投資を続けている。
「……削除要請は出したんだろ?」
「はい、もちろん。……それでも消えなければ、裁判所に申し出ます」
主語はあえて口にしなかったが、他に該当するものは無い。
「新しいのが乱立して『いたちごっこ』にならなければいいね……」
「本当にそうです」
「……犯人の特定も、依頼済み?」
「そうですね。犯人探しと、検索避けと……。まったくもって、不本意な出費です」
「犯人から賠償金として取り返せるんじゃないかい?」
「賠償まで、認められるかどうかは何とも……設備や受注量には影響が無いので、金銭的な被害を主張することは出来ません」
「そんなものかい?……私なら『名誉毀損』で慰謝料を請求するねぇ」
「……裁判なんかに使う費用と時間があったら、本来の仕事をしたいです。私は」
「なるほど」
 私は、現場内で動き回る従業員達の中に、夫を見つけた。随分と怖い顔をしている。こちらには、まったく気付かない。
 若き社長が、心配そうに私に尋ねた。
「ところで……悠さん、お家では、どんな ご様子ですか?」
「……おかげさまで、毎日ぶっ倒れてるよ。余力のある日なら、怒鳴り散らしてるね」
「現場でも、そんな感じです……。私の力不足です。申し訳ありません」
「『悪い』のは犯人だ。貴女が謝るのは、おかしい」
「……恐れ入ります」

 掲示板に『三本足の狂犬』と書かれてしまった夫は、社長への忠義に篤く、会社そのものへの帰属意識が著しく強い。信頼できる人物に対しては非常に従順であり、部下やアルバイトに対しては、技術面だけではなく、マナーや安全面についても、社内の誰よりも厳しく指導する。私は、そんな夫が自分の部下だったら全幅の信頼を置くし、一昔前なら彼のような人物は【熱血漢】と呼ばれ、一定の好評価を得られたように思われるのだが……近年の価値観だと「パワハラ上司」と見なされてしまうようだ。
 確かに、夫は忙しい時には大変 口が悪いし、あれだけの癇癪かんしゃくを職場内で目の当たりにしたら、若者は当惑するだろうとは思う。しかし、だからといってインターネット上で執拗に貶めるのは やめていただきたい。

 社長の許可を得てから、私は現場内で従業員達に混じって補助的な雑務を始めた。現場内の掃除や整頓、刃物研ぎ、工具や残材を定位置に戻すこと、ゴミ出し、他、思いつくままに動き回る。狂ったノギスがあれば、現職の人々の邪魔にならない場所で、分解して直す。在籍中を思い出しながら、ささやかな幸せに浸れる時間である。
 いつもなら、見慣れない学生が数人は必ず居るのだが、今日は見知った顔ぶれしか居ない。
 直したノギスを保管場所に戻した後、機械場の一角で、出来たての製品を検査室に運ぼうとしている夫に出くわした。
「お疲れ」
「おっ……来てたのか!?」
「今日は、一緒に帰るかい?」
「俺、何時になるか分かんねえよ……」
「終わるまで待つさ」
夫は今日が「休前日」であるため、遅くまで頑張るつもりでいたのだろう。


 21時を過ぎた。私は助手席に夫を乗せて、車を走らせる。昼と夕方で弁当を2個食べているはずだが、この時間ともなると、やはり また空腹となるようで、彼はずっと「腹が減った」とか「コンビニで唐揚げを買おう」とか、食べる話ばかりしている。(今日の彼は、まだ分別がある。)
「今日は、坂元くんが油淋鶏を作ってくれているよ」
「マジかよ!?やったぁ!!」
私達は、2人とも鶏肉が好物である。(掲示板の一件が発覚して以来、食事に鶏肉が使われる頻度が上がった気がする。)
 外を眺めていた夫が、ふと何かに気付いた。
「あれ、藤森ちゃんじゃないか?」
「え?」
夫が示した方向を見ると、真っ暗な中を、黒っぽい色のジャージを着て、見覚えのあるリュックを背負って歩いている人が居る。
「……あ、本当だねぇ。仕事終わりかな?」
持ち物と、歩き方と髪型から、彼女であると判断した。
「拾ってってやろうぜ」
「気付くかな……」
私は車を加速させて彼女を追い越し、彼女の進む先に車を停め、ハザードランプを点けた。
 夫が窓を開けて、歩いてきた彼女に呼びかける。
「藤森ちゃーん。お疲れー」
見覚えのある車に気付いていたのか、彼女は何度も会釈をしながら、素直に歩み寄ってきた。(普段、彼女も坂元くんとの買い出しで この車に乗る。)
「宿に帰るなら、乗せてくぜー」
へらへら笑っている夫を前に、彼女は「結構です」とでも言いたげに、首と手を横に振る。
「遠慮しなくていいんだよ。俺が、ちょっと臭いかもしんねえけど……」
私はもう何とも思わないのだが、ゴム素材や機械油、有機溶剤の匂いに加え、一日分の汗や、退勤直前に吸ってきた煙草の匂いが入り混じった「現場の匂い」を纏った夫を乗せている車内は、世間一般の感覚だと「臭い」かもしれない。
 彼女は「私は すごく汚い」と、手話で表現した気がする。清掃の仕事で体が汚れたことを、気にしているのだろう。
「本人が望まないなら、無理強いは良くないよ」
私はそう諭したが、夫は、窓から身を乗り出してまで、彼女に絡む。
 彼女は、私に視線を送ってきた。
「好きにしてくれたらいいよ。多少汚れても、後で掃除すればいいから……」
 かなり迷ったようだが、彼女は乗ることを選んだ。夫の後ろの席に座った。
「あのゲストハウスの、最寄り駅まででいいかな?」
彼女が頷いたのを確認したら、私は車を発進させた。(あのゲストハウスは商店街の中にあり、車は、そこまでは入れない)
 暗い車内で、彼女一人だけが後ろに座ると、会話が少し難しい。私は、弟が乗っている時のような感覚で、あまり会話をせずに走るつもりでいるのだが、夫は それでは不満なのか、やたらと彼女に語りかける。適当に頷きながら聞き流せばいいような、他愛もない話ばかりを、一方的に語る。私は、放っておく。


 約束の駅で彼女を降ろしてから、帰路につく。自宅に着き、夫に続いて車を降りた後、私は後部座席に置き去りにされた彼の荷物を取るために、後ろのドアを開ける。無造作に置かれたリュックを回収する瞬間、銭湯の脱衣所のような匂いに混じって、ほんのりと、遠い昔に嗅いだことのある臭いを感じた。私は、彼のリュックを背負った後、思わず、再度 車内に上体を入れた。
 これは……死臭だ。哺乳動物の死骸が腐った臭いである。特に、雑食性の動物の臓器が腐ると、このような臭いがする。……醤油が腐ったような臭いも混じっている。
(どこを片付けてきたんだい?君は……)

 とはいえ、このくらいの臭気なら簡単に消せる。私は、夫のリュックを背負ったまま、全てのドアを開け放って空気を逃がしてから、車内に常備してある消臭スプレーを、全ての座席に吹きかけた。
 頃合いを見てドアを閉め、鍵をかけ、自宅内に入る。私は、夫の作業着を洗うべく脱衣所へ向かう。荷物のことなど完全に忘れているのか、無言で私に託したつもりなのか、彼は既に浴室の中である。
 愛すべき『狂犬』の衣類を、洗濯機に押し込む。洗うのは、明日でいい。

 私は、明日から2泊3日の日程で あのゲストハウスに滞在する予定だ。随分前に予約を入れていた日が、やっと来たのだ。
 あの宿には、過去に著名な詩人が滞在していた部屋があり、そこはとても人気があって、なかなか予約が取れないのである。
 私は、そこで次回作の本文を煮詰めてくるつもりでいる。


次のエピソード
【15.言葉の部屋】
https://note.com/mokkei4486/n/n95d6795ea5a1

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