小説 「ノスタルジア」 2
2.後継者
「現場」と呼ばれている建物の裏手、雨をしのぐには物足りない軒下に、ひっそりと置かれた赤色の四角い吸殻入れ。そこが、この会社の「喫煙所」でした。吸殻入れの中には いつも雨水が溜まっていて、おかげで煙草の火は確実に消せました。
ある晴れた日の夕方。常務がその喫煙所のアスファルトに座り込み、手にした図面を睨みながら、それとは反対の煙草を持つ手の親指で頭を掻き掻き唸っていると、いつも通り汗とゴム粉にまみれた亘がやってきました。亘自身は煙草を吸わないのですが、常務に用がある時は、煙を厭わずここに来ます。
「お疲れ様です」
「やぁ、お疲れ。……ちょっと一服しようよ。亘ちゃん」
朝から働き詰めで尚且つ50代後半の常務は、いつも夕方にはクタクタで、煙草を吸いながらの休憩と「進捗状況の確認」ばかりが続きました。しかし、外がすっかり暗くなる頃まで休んだら、再び元気になるのです。他の皆も、それを知っているので、誰も常務を悪く言いませんでした。
亘は、常務の仕事の進み具合が知りたかったようです。尋ねられた常務は、手の中の図面を見せながら答えました。
「これを今日中に仕上げたいんだけどさ。僕、もう腰が痛くって……」
「俺、代わりましょうか?」
「いやぁ、そこまでじゃないんだ。休み休みやれば……何とか」
仕事を代わってもらえれば、確かに身体は楽ですが、その分の「売上」は亘の成績となってしまい、その月の「成果報酬」に関わります。そのため、常務はどうにか自分の手で頑張りたかったのでした。
「良いんだよ。もう定時なんか過ぎてるんだから。好きにすれば……」
常務は、吸い終わった1本目を吸殻入れの水の中に放り込み、すぐに2本目の煙草に火をつけました。
「亘ちゃんの仕事は、押してるかい?」
「いえ。明後日以降の分です」
「おや。『作り溜め』かい?……優秀だなぁ。さすが我が社のエースだ」
「とんでもないです」
亘は、いつだって謙虚です。
常務は、大きく息を吐きました。
「しかし、ねぇ……。僕は、全ての技を、亘ちゃん一人だけに教えようとは思わないんだ。【後継者候補】は、複数育てておかないと……誰が、いつ、どうなるかなんて、分らないからねぇ?」
この石川常務が定年退職した後は、亘が次の常務になると、内々では決まっていました。しかし、石川常務はそれを「決定事項」とは捉えていませんでした。
「特に亘ちゃんは、いつ他社に引き抜かれるか分らないから……第二・第三の候補生が、必要だよねぇ?」
「いやいや、引抜きだなんて……」
常務のお話が終わる気配は無く、また、自分一人だけが立ったままでは「目上の方を、上から見下ろすようで失礼だ」と感じ、亘も吸殻入れの近くに座りました。
疲れている時の常務は、長話をしながら呼吸を整えるのです。
「それでね?僕は……それは、松尾ちゃんが良いんじゃないかと思っているんだ」
「え、松くんですか?」
「そうだよ。彼、前の会社で、怪我をする前は【社長候補】だったらしいから」
その話は、亘も工場長から聴いていました。しかし、あんな大怪我をして間もない彼に、過度な負担を強いるようなことはしたくありませんでした。毎日、隣県から通ってくるというだけでも、大変なことであるはずです。
「彼、今すごく頑張ってるし……あんなに賢い高卒は、そうそう居ないよ」
亘の考えとは裏腹に、常務は新人の悠介のことを、すごく買っているようです。
亘は、思わず ささやかな「反論」をしました。
「彼は『一般枠』の社員ではありませんよ……?」
「だから何さ。……多少の身体的なハンデがあったって、頭さえクリアなら、どんな役職にだって就けると思うよ?僕は」
常務は、至極あっさりと答えました。そして、亘は以前にも全く同じことを同じ調子で言われたのを思い出しました。
常務は3本目を燻らせながら、得意げに語り続けます。
「常務の仕事で、いちばん大事なのは『全員の安全に責任を持つこと』だから。毎日きちんと見廻りをして、設備の危ない所は直して、具合の悪い人に無理をさせない、まともな段取りを組める人なら、務まるんだ。……だから、極端な話、常務は『職人』でなくたって良いんだ」
とはいえ、創業以来70年以上、この会社の「常務」は「最も優れた職人」でした。そうでなければ、現場の職人達から信頼を得ることはできないと、代々語り継がれてきました。
だからこそ、亘は「次の常務」に選ばれた時、とても誇らしかったのと同時に、尋常ではない緊張感に襲われました。この石川常務は温厚かつ柔軟で、飄々とした人ですが、亘は この偉大な先代のように柔らかい心で大役を担えるだろうかと、不安になる日もありました。
「僕はねぇ。金曜日の【あの時間】は、君たち『常務候補生』を育てるために在ると思っているんだ」
亘にとって、あの【勉強会】は「生活のために欠かせない残業」であり「悠介の熱意に応えるための大切な時間」でした。悠介は、まだ現場用の新しい義手を買う資金が貯まっておらず、残った右手ひとつで出来ることを模索し続けています。亘は、彼の試行錯誤に協力する時間が、とても好きでした。
子どもの頃、パラアスリートを技術で支える「メカニック」という仕事に とても憧れていた亘にとって、今の状況は、非常に心が躍るものでした。学生の時点で大いに躓き、夢破れたからこそ、今はこの小さな町工場に居るのですが、巡り巡って かつての夢に「当たらずとも、遠からず」な役割を担っていることが、亘は内心とても嬉しかったのです。
「……で。そんな君達と、次期社長の直ちゃんが一緒に技を磨くだなんて……最高じゃない」
常務は、なんだかやけに うっとりしたような顔で言いました。亘には、それは煙草の味と成分が大いに関係しているように思えました。
「我が社の未来は安泰だねぇ」
前向きな持論を語り、すっかり気分が良くなったようで、常務は3つ目の吸い殻を処分したら ようやく立ち上がり、仕事に戻っていきました。
悠介と2人きりで過ごした時間の長い亘には、彼の健康面に対し、怪我のこと以外にも気付いていた事がありましたが、この場では口に出しませんでした。