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小説 「僕と先生の話」 33

33.夕陽

 松尾くんと再会できた翌日。僕が退勤する時間。
 先生は、在籍中には必ずそれを被って通勤していたという年季の入った帽子を被って、あの工場長がいる町工場へと出かけていった。今回は、付き添いを頼まれなかった。
 物語に関することで、先生は また深く悩んでいるのだろう……。

 その次の日。先生は今まで通り「おはよう」と言って出迎えてくれた。
「工場長は、お元気でしたか?」
「もちろん」
「不思議な夢、見ましたか?」
「夢?……あぁ、今回は見ていないな。ビジネスの話を、しすぎたかな」
先生は、物語のことで悩んだら その町工場を訪ねるというけれど、そこの株主でもあるから、やはりビジネスの話も たくさんするのだろう。
「彼を雇ってもらえないかどうか、打診しに行ったんだ。まだ、本人には話していないけれども……」
「松尾くん、ですか?」
「そうだよ。他に誰が居るんだ?」
「善治さん……まだ転職先 決まってないですよね?」
動くものを見つけた虎のように、目を見開く先生。
「……忘れていた」
そう言いながら、眉間に深い皺を寄せる。
「どうして、忘れてしまったんですか!?」
「あいつは、図太いから……世話を焼く必要性を感じないんだ」
(確かに図太いけれど……!!)
「何にせよ『後日、本人を連れて来い』と言われたよ」
「まぁ、そうなりますよね……」

 僕が2階でタイムカードを押すと、先に上がってきていた先生が、何かのチラシらしい紙を手に、僕の側までやってきた。
「君は、仏教美術に興味はあるかい?」
先生に手渡されたのは、とある美術館で開催中の特別展のチラシだった。仏教が日本に伝来する前の、古代インドや中国で造られた仏像や仏典、法具の展示会らしい。
「私と一緒に行けば、無料で見ることが出来るよ」
その理由は、ずっと前に気付いていたから、今は あえて何も言わなかった。
「先生、見たいんですか?」
「私は見たいよ」
「僕も、興味あります」
「良かった」
 先生の発案により、その日のうちに鑑賞しに行くことになった。

 目的の美術館は、あの動物園の すぐ近くだった。受付で先生が身分証を提示すると、先生ご本人と『付添い』の僕が、無料で入館できた。先生が時に【最強手帳】と呼ぶそれは、いわゆる障害者手帳である。
 展示室の中には、ほとんど人が居なかった。平日の日中に、こんな所に来るような人は、とても少ない。美術館のスタッフの他には、何組かの老夫婦を見かけた程度である。
 外の喧騒から切り離された静寂の中で、数千年前に造られた展示物を見て廻る。先生は個々の展示物について、小声で感想を述べつつも「弟のほうが詳しいんだ」と言って、あまり多くを語らない。
 僕は、先生や善治ほど仏教に詳しくはない。実家には仏壇があったけれど、実家もろとも手放してしまったし、もう何年も墓参りすらしていない。自身を「仏教徒」と呼べるかどうかも疑わしい。
 それでも、古代の彫像や絵画をアート作品として鑑賞するのは、決して嫌いではない。

 思ったより短い時間で満足したらしい先生は、美術館を出たら「天気が良いから、散歩してから帰ろう」と言った。美術館の周辺は、市内有数の面積を誇る公園になっている。
 先生は、歩くのがとても好きである。行き先は日によって様々だけれど、長い距離を歩きながら物語の構想を練るのが、大切な日課だという。出歩くのをやめてしまったら、途端に体調を崩すという。(毎朝、僕が出勤する前に近所を散歩しているらしい。朝だけで物足りなければ、日中でも衝動的に外出して歩く。)
「私は、立体的な作品を鑑賞すると、無性に ものづくり が恋しくなるんだ」
広大な公園の一角にある日本庭園を歩きながら、先生はそう言った。
 工業製品はアート作品ではない。しかし、精巧な『手作り』の作品に感化され、何かを作りたくなる気持ちは分かる。

 庭園の奥の東屋まで、先生は迷うことなく歩を進めた。茅葺き屋根の下に並んだ長椅子に座ると、庭園内が一望できる。
 遠くに高層ビルが見えるけれど、この場所も、大都市の喧騒から切り離されている。時の流れが違う気がする。
 大きな池には、鯉や亀がたくさんいる。
 庭園内は、驚くほど人が少ない。まるで貸切だ。
「この時間帯は、ほとんど誰も居ないんだ」
「秘密の場所みたいですね」
「頭を冷やすには、良い場所だよ」

 先生と並んで長椅子に座り、つい先程「ものづくりが恋しい」と言った先生に、僕はあの町工場のことを いくつか訊いた。技術力や主力商品のことを教えてもらったけれど、正直よく解らなかった。僕は製造業から脱落して久しい。ほとんど忘れている。
「ご友人を、何人も紹介されたんでしたっけ?」
「そうだよ。……みんな、辞めてしまったけれども」
「難しい仕事なんですか?」
「難しいからと言うより……体質的に合わなくて、辞めてしまう人が多いね。石油系の素材や、劇薬を扱うから。あと……私が紹介した人は、みんな『製造業をやりたくて』入ったのではなくて、何らかの理由で『転職せざるを得なかった』人だから。アルバイトとして入った後、よそで正社員になったり、起業したり、学校に入り直したり……様々な理由で、卒業していったよ。
 私なんて、一年か そこらで脱落して無職になったんだ。他人ひとのことは言えない」
「体質的に合わなかったんですか?」
「まぁ、そうだね……」
先生は、長椅子に手を着いたまま、庭園内を眺めていた。
「私の認識としては、そこに転職したことで、身体的な状態は『すごく良くなった』のだけれども。やはり……長く続けられる体質ではなかったね」
それでも、未だに現場へ顔を出し、株を買うほどの、強い思い入れがあるのだ。
「先生は以前『絵本を描きながらでも、そこでアルバイトがしたい』と、仰ってましたよね?」
「そうだよ。もう身体が適わないから、しないけれども……」
「何が、そこまで先生を惹きつけるんですか?」
「『何が』と問われると、難しいねぇ……。何と答えようか。『ボスの経営理念』か?
 いや、違うなぁ……そんなんじゃ、しっくりこない」
腕を組んで、首をあちらこちらに かしげながら、自問自答を口に出す先生。
 やがて、背筋を伸ばして、僕ではなく真正面を見据えて言った。
「私は……あの工場長に、命を救われたんだ」
 それは、決して誇張ではないはずだ。

「あそこで働き始めたばかりの頃……私は、誰からも人間扱いされていなかった」
腕を組んだままの先生の視線は、ずっと庭園に向いている。
「私は、名のある研究機関に所属していたのだけれども……まるで、奴隷か、実験動物のような暮らしを強いられて……すっかり、心身が壊れてしまった。
 学閥争いの渦中において私は『馬の骨』だったし、出自や職歴を理由に、ひどい侮辱を受けた。私の病態を理由にした嘲笑や監視も、酷かった。それでも、そう易々とは辞められないほど、私は【脳】に興味があった……。そこに至るまでの人生を思えば思うほど、辞められなかった。
 しかし、当時の日本では誰も成功させたことのなかった実験の追試を『丸投げ』されて、学の浅い私一人では、到底、手に負えなかった……。外国語の参考文献を読み解くだけで日が暮れるほどだったから、一日が24時間では到底足りなかった。それでも、上司は容赦なく『期日』を決めて『実績』を要求した……」
 先生は、医師や獣医師ではないはずだ。研究者であったこと自体、僕は知らなかった。しかし【脳】が関係しているということは、医学の基礎研究か、あるいは新薬開発のための研究か……。いずれにせよ、当時の先生に課せられた業務は、常人には到底理解できない高度なものであったはずだ。それを、研究員一人に『丸投げ』するなど、もはや狂気の沙汰である。先生個人の能力が、どれほど高くても……チームでない限り、成し得ないことはある。
「私は、深刻な睡眠障害と うつ病を発症して、やがて満足に口が利けなくなって、消化器系も壊れた。それでも、雇用主は休職も退職も認めなかった。人員の補充も無かった。実験計画の見直しすら許されなかった。私は『死ぬまで働け』と宣告されたような気分だった。自分は奴隷だと思った」
先生は、その凄惨な過去について、あえて過去形の短文を羅列することによって、冷静に客観視しようとしているように思われた。
 先生は、ずっと真正面……庭園内のどこかを見ている。
「私は、いよいよ『辞めなければ死んでしまう』と思った。転職先の候補として……研究所での仕事を終えてから出勤することが出来る、町工場での夜勤を選んだ。当時の私は、面接の時間を守ることすら出来ず、電話連絡も ままならない状態であったけれども、工場長は私を受け入れてくれた」
自分が工場でのアルバイトを始めた頃を思い出した。当時の先生は、あの頃の僕より、ずっと重症だったとは思うけれど……。「病身であることを分かった上で、受け容れてくれる人が居る」という喜びや安心感は、健康な人には解り得ないものであると思う。
 工場長としては、世界最先端の研究に携わるほどの秀才が、いつか健康を取り戻して自社で大活躍してくれることを、願ったのかもしれない。
「工場長は、重篤な精神疾患であった私が、ほとんど誰とも会話をせずに、落ち着いて黙々と作業に打ち込める環境を整えてくれた。
 当時の私は……おそらくは実験の影響で、日常的に幻覚を見て、些細な刺激に過剰に反応し、暴れたり、叫んだり……ひどい有り様だった。我ながら『猿のようだ』と思った。しかし、もはや私は、己の身体をコントロールすることが出来なかった。……それでも、工場長は私を【人材】として受け入れてくれた。
 その町工場には、当時の中小企業としては珍しい『障害者雇用枠』があったことを、私は働き始めてから知った。求人に応募した時は、知らなかった」
僕は、それを奇跡のような巡り合せだと思った。
「研究所では『馬の骨』や『奴隷』だった私が、そこでは一人の【人間】として、堂々と働いていられた。
 私や、他の障害者の、特性や病態について揶揄する従業員が居れば、工場長は躊躇ちゅうちょなく叱責し、時には加害者を解雇した。
 そんな、本来『至極当たり前』であるべきことが、人生で初めて【現実】になった……」
工場長がしたことは、今の時代であったとしても、先進的と言える。
 本来であれば「至極当たり前」であって然るべき、最低限の人権意識を持ち合わせた成人の集合体というものが、残念ながら稀有なのである。ここは『先進国』であるはずなのに……。
 かつて、あの工場で部長が輝いて見えたのと同じように、当時の先生にとって、工場長は間違いなく『ヒーロー』であったはずだ。


 日が落ちてきた。そろそろ、寒くなってくる。庭園の、閉園時間が迫ってくる。
「私は……日中の仕事を終えて、あの町工場に向かって歩く間だけ、全身に太陽の光を浴びることが出来た。沈んでいく夕陽の下ではあったけれども…………私は、自分が生きて太陽の下を歩いていられることが、嬉しくて堪らなかった……! 狭苦しい暗室や、窓の無い実験室、ゴミ捨て場や死骸置き場から解き放たれて、心から信頼できる人のもとへ歩いていく時間だけが……私を支えていた」
「生きて太陽の下を」というところで、先生の目から、涙が溢れ出した。先生は、それを拭うこともなく、ただひたすらに前を見つめながら、声を震わせて過去を語る。
「ほとんど日が沈んだ頃に出勤して、工場長に『おはよう』と言ってもらう瞬間に、私の一日は、ようやく始まった。そこで勤務する数時間のためだけに、私は生きていた。私が【人間】で居られる場所は、世界中で そこだけだったから……!」
眼鏡を外し、少年のように鼻水を垂らしながら、背中を丸めて咽び泣く先生。僕は、その背中に、触れずにはいられなかった。
 僕は、先生の背中をさすりながら、少しだけ もらい泣きをした。
「貴方は、毅い……。
 貴方は、本当に毅い方です。先生……!」
先生は、僕の言葉には応えなかった。
 それでも、僕は先生の背中から手を離さなかった。
 おそらく初めて『事件』について、独り言ではなく、明確な意志をもって僕に語ってくれた先生に対する感謝や、先日 岩下さんから聴いた話が、頭の中を駆け巡り、言いたいことは山ほどあった。しかし、到底 纏まらず、口に出すことは出来なかった。
 ただ、僕が先生を想う気持ちは、手に込めたつもりだ。僕は、今、先生が生きていることが嬉しい。そして、凄惨な状況下を逞しく生き抜いた後に、作家として大成し、僕を寛解に導き、工場長のもとへと繋ぐことによって複数人を救ってきたであろう先生に、最上級の敬意を表したかった。

 先生が今も足元に置いている外出用のリュックには、タオルと煙草入れと水筒が、必ず入っている。(動物園に行くなら、そこにクロッキー帳とペンケースが加わる。)
 僕が、残念ながら閉園時間が迫っていることを告げると、先生は泣きながらも僕に眼鏡を手渡し、リュックを取ってご自分の右脚の上に置き、中からタオルと水筒を取り出した。
「太陽の存在を忘れたら……私達はおしまいだ……」
動物園で日光浴をする猿たちを見ながら言っていたことを、先生は再び口にした。
 涙と鼻水を拭い、水筒の中身を ひとしきり飲んだら、先生は「帰ろう」と言った。
 荷物を整えて立ち上がり、眼鏡をかけて、歩きだしたら、迷うことなく庭園を抜け、森林を模した公園内を進んでいく。僕はただ、黙って後ろをついて行く。

 僕は、この偉大な作家の従者であることが誇らしかった。

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 その夜、僕は自分の家に帰った後、衝動的に書き上げたものがあった。


次のエピソード
【34.元来の自分】
https://note.com/mokkei4486/n/n7d72e2b62fea

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