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小説 「僕と先生の話」 28

28.勇姿

 松尾くんが逃走してから、4日目。僕が資料室で先生の最新作を読んでいると、先生が髪をぐしゃぐしゃに掻き乱しながら入ってきた。
 先生は、僕の正面にある椅子に腰を降ろし、深くため息をついた。何日も眠っていないかのような、やつれた顔をしていた。
「お疲れ様です」
僕は、読みかけの絵本を閉じた。
「……彼の居場所が分かった」
「あ、良かったですね!見つかって」
「いや、決して良くはないんだ」
先生の表情は険しい。
「え……?」
「彼は……あの日、私の家を飛び出した後……現場に顔を出して…………機械に、腕を挟まれて……大怪我をしたらしい。社長から連絡があった……」
鍵が無くて自宅に入れず、財布も無かったため、同僚を頼りたかったのだろうとは思うけれど……
「え、彼……休職中ですよね!?」
「そうだよ」
「どうして、現場の機械に!?」
「そこまでは分からない……」
「どのくらいの怪我ですか?」
「そこまでは聴いていない……」
先生の声からは、不安や心配よりも、強い「怒り」を感じた。社長に対するものか、あの日のご自分に対するものか……。
 いずれにせよ、あの現場にある機械で「挟む」といえば、僕はプレス機しか思いつかない。あんなものに挟まれたら、骨折くらいでは済まない……。
「私は、今から……彼の貴重品を、病院まで届けてくる。すぐに戻る」
「わかりました。お気をつけて……」
 近年は、いかなる診療科であっても『感染症対策』として、基本的に入院患者との面会はできない。病院に立ち入る人数は、最小限にしなければならない。

 先生は、車を置いて、一人で出かけていった。そして、ほんの数時間で帰ってきた。
 帰宅するなり、先生は「煙草を吸ってくる」と言って3階に消えてしまった。僕は その時、2階の台所に居た。
 夕食の時、先生の眉間から皺が消えることはなかった。社長も、病院の職員も、彼の容態については何も教えてくれなかったのだという。

 ところが、夜になって僕が退勤する頃、松尾くん本人から電話があった。「退院できたら、先生の家まで漫画や枕を取りに行きたい」とのことで、先生は「それくらい宅配便で送ってやる」と言ったけれど、彼は「先生に会いたいから」と言ったそうだ。怪我のことは「気にしないでください」の一点張りで、教えてくれなかったという。
 とはいえ、先生は「会いたい」と言ってもらえたことを喜んでいたし、僕も、久しぶりに彼の声が聞けて安堵していた。


 約一ヵ月後、彼が訪ねてきた。
 僕は、あえて「おかえりなさい」と言って出迎えた。彼は照れ臭そうに笑っただけで、何も言わなかった。(相変わらず、お気に入りらしい黒マスクを着けていた。)
 怪我のことは、退院するまでは頑なに教えてくれなかったけれど、来訪する前日に「驚かせてしまうと悪いから」と言って、打ち明けてくれた。
 彼は、現場のプレス機に左腕を挟まれて、一部を失っていた。かろうじて「肘」と呼べる部位は残っているけれど、腕は随分と短くなってしまった。玄関で、中身の無い袖がぶらぶらしているところを実際に目の当たりにした時、僕は何も言えなかった。
 それでも、本人は「今回の入院で、目眩がしなくなった」と喜んでいたし、失くしたのが「利き腕ではなくて良かった」と、前向きな言葉を口にしていた。

 先生は、彼が元気に訪ねてきたことを喜んだ後、体調不良に伴う八つ当たりのことを謝罪した。彼は「気にしないでください」としか言わなかった。先生に殴られたことは憶えているけれど、そちらは大した怪我ではなかったし、責めるつもりは無いという。先生の不調と、自分が現場で怪我をしたことは「無関係だ」という主張を崩さなかった。
 何故、休職中であるにも関わらず現場で機械を操作したのかについては、語ろうとしなかった。
 堂々と胸を張り、凛とした声で「俺、あの会社辞めます」と宣言した彼に、先生は「それがいいよ」とだけ言った。僕は「本当にお疲れ様でした」と一礼した。
 彼は、部長の眼のことも、善治が辞めたことも、知っていた。


 僕は、彼が取りに来た物品を車に積んで、彼を自宅まで送った。先生は、ご自宅に残った。
 家事をするのが難しい状態にある彼の家は、かなり散らかっていた。僕は「せっかくなので」と言って、簡単な掃除と整頓をした。彼はずっと、小さな声で「すいません、すいません」と繰り返していた。
「なんもなんも。気にしないでください」
 僕は、彼に対しては再び丁寧語を使おうと決めた。

 帰り際、彼に、一人暮らしの中で特に不便に感じていることを訊いてみた。彼は「洗濯物の取扱い」と「ゴミ袋を うまく結べないこと」と答えた。
「週に一回くらいなら、僕、掃除とか手伝いに来ますよ」
「いや、そんな……悪いっすよ」
彼は遠慮したけれど、僕は、先生と一緒に善治の家を大掃除したことがあると告げ「協力は惜しまない」と伝えた。
「他にも、もし何か困ったことがあれば、いつでも連絡してください」
「あ、ありがとうございます……」
随分と遅くなってしまったけれど、僕は彼と連絡先を交換した。
「いつでも、飯食いに来てください。先生、きっと喜びます」
僕が口頭でそう言うと、彼はLINEで【ありがとうございます】と伝えてきた。


 先生の家に戻り、念のため和室に彼の忘れ物がないかを確認した。(無さそうだった。)
 先生は、僕を迎え入れたら、すぐ3階に上がってしまった。
 なんとなく心配になって、僕は資料室に用があるふりをして3階に上がった。ドアが開きっぱなしのアトリエから、薄い紙をシュレッダーにかけ続ける音がしていた。先生が、アイデア用のクロッキー帳から廃棄するページを引きちぎり、黙々とシュレッダーにかけていた。
 また、一部は既に彩色まで終わっている絵が、何枚も床の上に広げられていた。先生は、大切な【原稿】であるはずのそれらも、躊躇ちゅうちょなく真っ二つに引き裂いてから、シュレッダーにかけてしまった。

 その日の夕食の時、先生は彼の自宅の様子について、僕に尋ねた。僕は、定期的に訪ねて家事に協力したいという考えを話した。
 先生は、理解を示してくれた。
 珍しく黙々と食べ進めていた先生は、食卓の上にある愛用のマグカップを注視し始めた。そこに描かれている恐竜(優しいタッチで描かれた、緑色のトリケラトプス)を見つめていると、心が落ち着くのだと、いつか教えてくれたことがある。
「彼が望むなら……私は何だってする」
先生の視線は、ずっと恐竜に向けられていたけれど、僕は黙って先生の眼を見ていた。ただひたすら、彼のために思慮を巡らせている先生の眼差しに、魅入られていた。
 僕は、先生が望むなら、彼のことも全力で支えたい。


次のエピソード
【29. 「死活問題」】
https://note.com/mokkei4486/n/n7ae76501f6d6

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