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小説 「吉岡奇譚」 29

29.春の兆し

 一夜空けて、夫は早くも彼を「和真」とファーストネームで呼んでいた。彼も、夫を「悠さん」と呼んで、心を開きつつある気がした。

 4人は それぞれのペースで朝食を摂り、私だけは いつも通り本を持って散歩に行く。
 気持ちの良い天気に、春を感じる。
 日が短く、更には忌まわしい記憶が しつこく纏わりついて離れない冬が終わり、暖かみのある春がやってくると、頭には【希望】の2文字が浮かぶ。特に、桜の花を見ると、私は「今年も、生きて桜を見ている」という事実に、深い感謝と喜びを感じる。
 しかし、桜が咲き始めてしまったということは、今年度は もう間もなく終わるのだ。
 作画は、あと1枚で終わる。岩くんが総務に移ってしまう前に、無事に終わるだろう。それは喜ばしいが……やはり、寂しい。
 彼が私の家に来ることが無くなるわけではないが、彼と共に仕事をすることが無くなるのは、本当に寂しい。
(あれほどまでに崇高な時間は、他に無い……)
 彼と共に、物語の主題となる【生命】や【生き方】について考え、意見を交わす時の、あの崇高な気持ちは、何物にも代え難い。同じ宗教を信じる仲間と、互いの宗教観や死生観について語り合う機会など、他では なかなか得られない。(寺院等で僧侶や住職と語り合う機会というのは、なかなか頂けない。)

 私は、いつもの公園の、いつものベンチに座り、持参した文庫本を開いて膝に置いたまま、春の景色を眺めていた。
 私は、基本的に朝はスマートフォンを持ち歩かない。日々の生活の中に「インターネットから解放される時間」を確保することを、心がけている。
 しかし、今日は桜の写真が撮れないことを悔しいと感じた。明日を待たず、午後にでも撮影しに来ようかと思ったほどだ。

 鍵を開けて藤森ちゃんを迎え入れる必要が無くなってからは、昼食が出来る頃まで戻らないことも、珍しくなくなった。
 書店や文房具店を覗いたり、まるで図書館に居るかのように、公園のベンチや大型スーパーの休憩スペースに陣取り、長々と本や新聞を読み耽ったりするのが、ささやかでも「至福の時」だ。(本物の図書館に行くのは、月に数回 程度である。)
 その趣味を「暗い」と嗤われた回数は知れないが、それでも、私は懲りずに「好き」を貫いている。


 公園での読書を切り上げ、帰宅して2階に上がると、珍しく夫がトイレ掃除をしていた。
「和真が、吐いたんだ……」
 どうやら、便器ではなく床に吐いてしまったらしい。ほとんど片付いているが、今朝まで敷いてあったマットが無くなっている。
「本人は?」
「下で寝かせてる。藤森ちゃんも、そこに居る」
「ちょっと見てくるよ」
私は、すぐさま和室に向かった。
 布団が敷かれ、倉本くんが横向きに寝ている。蒼白い顔をして震えながら、うわ言のように「ごめんなさい、ごめんなさい」と繰り返している。頭の近く、畳の上にバケツが置かれている。スポーツドリンクも置いてある。
「ただいま。……大丈夫かい?」
私の問いに、藤森ちゃんが首を横に振った。
 私は、倉本くんの視界に入る位置にまで移動する。
「倉本くん、お腹は痛むかい?」
「ごめんなさい。僕、僕……出来ません、ごめんなさい……」
「どうした?」
彼の目は開いているが、どこを、何を、見ているのか……まったく分からない。目に映るものには まるで関心が無く、何か恐ろしい考えに囚われているか、幻覚を見ているように思われる。
「大丈夫かい?」
「今は……今は、出来ません……本当に、ごめんなさい……」
(まるで、トランス状態だな……)
「ご、午後一からは……ちゃんと出ます……すみません……」
実際に置かれている状況とはまったく別の世界に居るかのような感覚に、陥っているのだろう。
 憶測に過ぎないが、過去に勤務先で奴隷のごとく働いていた頃に染みついた何かであるような気がした。
「具合が悪いのは、彼一人だけ?」
藤森ちゃんが頷く。
 やはり「食中毒」の類ではなさそうだ。
「倉本くん。気にしなくていいよ。謝るようなことじゃない。……ゆっくり休んで。しっかり水分を摂るんだよ」
「は、はい……」
「1階のトイレの場所は分かる?」
「わかります……」
見当識は怪しいが、脈絡のある会話が出来ている。ひとまず大丈夫だろう。
 「しばらく一人にしてあげよう」と言って、藤森ちゃんを連れて和室を出た。
「後で、また様子を見に来よう」

 3人での昼食を済ませたら、私は再び和室に下りて、彼の様子を確認した。
 ずっと同じ体勢のまま、熟睡しているようだった。
 私は、彼のことを夫に託し、10分程度の短い仮眠の後、最後の一枚の作画に取りかかった。
 妻亡き後、遺された大切な卵を様々な苦難や天敵から守り抜いた お父さん恐竜が、無事に生まれてきた子ども達と対面を果たし、献身的に世話をしながら絆を育む……という、至ってシンプルなストーリーの、ラストは「子ども達の巣立ち」である。
 逞しく成長し、立派な父の教えを胸に旅立っていく子ども達の、前途に幸多からんことを祈る父の姿を、私は「最後」に彩色することにした。
 今は、もっぱら子ども達を彩色する。実際のトロオドンの色は定かではないが、架空の物語の中では、色とりどりに描かせてもらう。父と似た色の子も居れば、母に似た子、まったく違う色の子も、たくさん居る。個性豊かな子ども達の『あるがまま』を受け入れる寛大な父は、私にとって、生涯 忘れられないであろうキャラクターに育った。

 あっという間に、夕食の時間になった。夫からの内線を受け、私は作業を切り上げて2階に下りる。
 倉本くんは、相変わらず「会話が噛み合わない」らしく、私は後で様子を見に行ってやることにした。
 朝食を吐き戻して以降、スポーツドリンク以外は何も口にしていないというのは、あまり良くない。坂元くん直伝の「ツナ缶粥」か「かつお粥」だけでも、食べさせてやりたい。(レトルト粥にツナ缶または かつお節を混ぜるだけの、即席流動食である。)

 食後、和室に赴くと、彼は うつ伏せで布団に潜り込んでいた。
「やぁ」
私は、彼の頭の近くに腰を降ろした。
「具合はどうだい?」
彼は、私の顔を見上げただけで、何も言わない。
「お粥くらいは、食べられそうかい?」
 彼は、のろのろと起き上がって「今、何時ですか?」と訊いた。
「夜7時くらいかな。……お腹は空いてる?」
「僕、行けませんでした……」
「どこに?」
「現場です……」
彼は、至って真面目な顔で、肩を落としている。
「……夢でも見たんだろう。君は今、無職なんだよ」
「無職……?」
「君は今【自由】なんだよ。ただ、私の家に泊まりに来ているだけさ」
「……僕、解雇されたんですか?」
「自分で辞めたんだろ?」
「いつ、ですか?」
「私は知らないなぁ」
夢か幻覚の影響で、記憶が混乱しているようだ。
「まずは、ごはんを食べたほうがいい」

 2階に連れて上がり、彼に「かつお粥」とインスタントの たまごスープを出した。
 彼は、ほとんど噛まずに それらを飲み干し、夫や藤森ちゃんが観ている番組を、ぼんやり眺めている。夫に「具合はどうだ?」と訊かれても、応えない。
 私が食器を片付ける。
「和真、おまえ……大丈夫か?」
夫の問いには答えず、ふらふらと1階に下りてしまう姿を、私は台所から見ていた。
 夫が、皿を洗う私のところにやってきた。
「あいつ、相当『状態が悪い』と思う」
「あぁ。毎日かなり長い時間、幻覚を見ていると思うよ。……過去の景色が目に見えて、自分がまだ養鶏の現場で働いているような錯覚に、陥る時があるんじゃないかな?」
「それでか……。昼間、俺に『課長は どこですか?』なんて訊いてきたんだ」
「その会社を辞めたのは、2年くらい前のはずなのだけれども。……そこで叩き込まれたことが、まだ抜けきっていないのだろうね」
「俺、どうしてやればいい?」
「特に、何も……。普段通りでいいだろ。私が幻覚を見て騒いでいる時と、同じ要領で、とりあえず良いんじゃないかい?」
「俺、明日、出勤なんだけどさ……」
「行けばいいだろ」
「藤森ちゃんも受診日なんだよ」
彼が「独り」になるのを避けたいのだろう。
「任せろ。私が看てやるよ」
「絵は、大丈夫か?間に合いそうか?」
「今回は順調だよ。悟くんのおかげで」
「悟ちん?」
「彼が『作画監督』だからね」
「はぁ……」
夫は、頭を掻きながら生返事をして、立ち去る。


 翌朝、私はスマートフォンを持って、倉本くんを散歩に誘った。彼は素直について来たが、桜にはあまり興味を示さなかった。
 私は気に入った枝を何本か撮影した後、彼に薦めたい散歩コースを歩いた。
「一日に、最低15分間は、太陽の下を歩かないとね。体内時計が おかしくなってしまうよ」
彼は応えないが、私は構わず語る。
「背中に太陽の光を当てることは、とても身体に良いんだ。特に、気持ちが塞ぎ込んでいる時や、夜 眠れない時には……太陽の力を借りると良い」
彼の背中に触れたが、特に嫌がる素ぶりは無い。
「歩くことも、脳には すごく良いんだ。有酸素運動と、適度な振動が、脳の血流を良くするから……」
私は、研究職時代に学んだことや、自身の体感に基づく見解を、懇々と語る。
 全てが聴こえているとは思わないが、彼は事実として太陽の下を歩いている。私が薦めたいことを、今まさに実践できているのだから、解説は必ずしも耳に届かなくとも良い。

 せっかく連れが居るので、私は鉄棒に歩み寄る。逆上りや懸垂が まだ出来るか、試してみたかった。
 両方とも、ちゃんと出来た。
 私が、高い鉄棒で懸垂に挑んでいる間、彼は低めの鉄棒で逆上りに挑戦していたようで、私が地上に降りた時、彼は足を蹴り上げていた。
 不恰好だが、ひとまず成功した。
「うまい、うまい」
私は拍手をしてみせたが、彼は黙って棒から降り、しばらく固まってしまった。
 久しぶりの運動だったのだろう、息があがっている。鉄棒を握ったまま、立ち尽くしている。
「……帰るかい?」
気付いていないようなので、肩を叩く。
「帰ろう」
「は、はい……」
消え入りそうな声だった。

 家に帰り着いた後は、彼はずっと、私の著書ばかり読んでいる。
 気に入ったものを数冊2階に持ってきて、ずっと こたつに居る。(1階の布団は、朝のうちに私が畳んでしまった。)
 サイのキャラクターが登場する話の、同じページを、じっと眺めている。
 私は、テレビの録画を見返し、サイが主役の番組が残っていないか探す。
 残念ながら見つからず、仕方なく、アフリカゾウが主役の番組を再生する。(サイが どこかに映りはしないかと、期待した。)
 やがて藤森ちゃんが帰ってきて、私は3階に上がらせてもらった。


 その後は特に何事も無く時が過ぎ、夫が早めに帰宅した。
「和真は?」
「今日は元気だよ。一緒に、散歩に行ってきた」
「良かった……」
 彼は、荷物を背負ったまま、速やかに風呂場に直行した。

 風呂から上がった夫は、2度目の夕食を摂りながら、倉本くんに「玄さんが心配している」という話を聴かせていた。倉本くんは、熱心に耳を傾けているが、脈絡のある受け答えが成立しない。
「藤森ちゃん……悪いんだけどさ。俺が話すこと、それに書いてやってくんねーか?」
箸で手が塞がっている夫は、藤森ちゃんに口述書記を頼んだ。
 彼女は快諾し、愛用の筆談具にスラスラと夫の話を書き起こす。それを読んだ倉本くんは、やっと「悠さんと玄さんは、同じ会社で働いている」という事実関係を理解し、玄さんからの伝言について礼を述べた。


 私が終い湯から上がり、2階へ上がる前に、何気なく和室の様子を見に行くと、男性陣は2人とも ぐっすり寝ていた。バケツは まだ和室にあるが、使われた形跡は無い。
(良かった……)
 私としては、倉本くんを もうしばらく家に置いて、様子を見てやりたい。


次のエピソード
【30.「諒」】
https://note.com/mokkei4486/n/n32d3ea9d4e74

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