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小説 「吉岡奇譚」 27

27.今ここに在るものは

 その日は、3人で朝食を摂りながら、近日中に藤森ちゃんが不動産屋に行くことについて話していたはずだった。
 毎朝 観ているテレビ番組に登場したゲストの声に、私はただならぬ恐怖を感じた。全く知らない女性であるはずなのだが……その声が、笑い方が、そっくりなのだ。かつての加害者と、自身の母親に。
 頭の中で、ぼこぼこと湯が沸くような音がして、実在する音が遠ざかる。やがて、たった数秒のうちに、半世紀近い我が生涯の記憶を全て、映像として見たような感覚に陥った。
 そこで、意識が途切れた。


 次に意識が戻った時、私は同じ場所に座ったままだった。夫が、泣き喚く子どもを宥めるように、ずっと私の背中を叩きながら、小さな声で、同じようなことを何度も言い続けていた。
「それ、もう……終わった。……終わった。な?……今の諒ちゃんには、関係ないから。……もう、終わったから……ここに、そいつ居ないから……」
 食器は全て片付けられ、テレビが消えている。藤森ちゃんが見当たらない。
「テレビ消したから。な?……もう、怖いこと無いから……」
下を向いている彼は、目を瞑って話しているようで、私の意識が戻ったことに気付いていない。
 彼は、短いほうの腕で、ずっと私の左腕を押さえている。私が癲癇てんかん発作を起こした時、絶えず動いてしまうほうの腕である。
「やめよう。な……藤森ちゃん、びっくりする……」
 夫の様子からして、久々の癲癇てんかん発作だけではなく、人格の交代があったように思われる。彼女が驚き、怯えるような暴言を、【彼】が叫んだのではなかろうか……。
 癲癇てんかん発作は「やめる」ことなど出来ない。「やめよう」などと呼びかけるのは、明確な意図をもった暴言や暴力に対してでなければ、おかしい。
「悠介、すまない……何があったか、教えてくれるか?」
「あぁ、良かった……!」
 彼は、私の問いには答えず、ただ宥めるのを止めた。
「俺が、判るんだな?良かった……」
「判るよ、もちろん」
判らなくなる時も、多々あるのだが……。今は、判る。
「いやぁ……久しぶりに、長いの来たからさ……びっくりした。救急車 呼ぼうかと思った……」
彼は涙声である。
「そんなにかい?」
「俺、今日 休んだからな。……また、何かあるといけないから」
「心配症だな……」
「今日は、何も描くなよ。アトリエには入るな。……独りになっちゃ駄目だ」
「何を言ってるんだ。あれは、今月中に仕上げないと……」
あれほど順調に筆が進んでいるのだ。この勢いのまま、一気に描き上げたい。
「今日は駄目だ。……な?頼む、やめてくれ」
涙ぐんで懇願されたのは初めてだ。
「……わかった。休むよ。だが、散歩くらいは行かせてほしい」
「俺も一緒に行く」
 彼の手が体から離れた途端、恥ずかしげもなく、腹の虫が鳴いた。
(あぁ、そうか……朝食を、途中で片付けられてしまったのか)
 私は、朝食の残りを自分で器に盛り、改めて食べなおすことにした。
 ふと時計を見ると、もう10時を過ぎている。感覚としては、つい数分前まで7時台の番組を観ていたような気がしているのだが……。
 食べながら、夫に訊いた。
「藤森ちゃんは、下に降りたのかい?」
「……不動産屋に行ってる」
(あえて、家から出したのだろうな……)
「良い物件が見つかるといいね」
「そうだな」
 もはや【勤務時間】という概念が無いほどに働き、契約には無い朝食まで毎朝用意してくれる彼女には、年度末の賞与を弾んでやらなければならない。

 2度目の朝食を終え、先日買ったばかりの新しい私服に着替えたら、夫と2人で散歩に出かけた。いつもの小さな公園ではなく、少し遠出をして、陸上競技場やサッカースタジアムが併設された大きな公園に、電車で向かう。
 私は、体調さえ良ければ、フルマラソンの42.195kmなど、平気で歩く。(走ったことはない。)しかし、同行者が嫌がるなら、そんなことはしない。
 森林を模した公園内を自由に歩きながら、ランニングやウォーキングをする人、犬を連れた人、野球少年の群れ、弁当を食べる人、植物をまじまじと観察する人など、思い思いに過ごす人々の様子を、なんとなく観察する。
「やはり、公園は良いなぁ……【自由】を実感するなぁ……」
「あぁ、そうだ。諒ちゃんは【自由】なんだ」
 太陽の下、大切な家族と他愛もない話をしながら、広大な公園内を、のんびり歩く。時には、気の向くままに走る。この時間が、とても幸せだ。この身体に生命があることを、実感する。

 私は まだまだ緑の中を歩きたかったが、彼が空腹を訴えたので、適当な店に入って昼食にした。うどん屋を選んだ。
 藤森ちゃんには合鍵を渡してあるからと、ゆっくりと食事を楽しんだら、私は「次は どこへ行こうか?」と問いかけた。
 彼は「煙草が吸えるなら、どこでもいい」などと言い始めた。(この店は禁煙である。)
 私は「動物園にも喫煙所はあるよ」と応えたが、彼はあまり動物に興味がない。「今から?」などと言って、渋っている。
 会話中、サイドポケットに入れたスマートフォンの、バイブレーションが止まらない。玄ちゃんからの着信が続いている。
 しかし、私は応答する気にならなかった。外出先で、更には飲食店の中なのだ。

 結局、私の希望で大型書店に立ち寄り、適当な心理学の本を数冊立ち読みしてから帰宅した。特に何も買わなかった。(彼が煙草を吸えたのは、帰宅してからである。)
 藤森ちゃんは、まだ帰っていない。「今日のうちに内覧に行く」と、連絡は受けている。

 改めてスマートフォンを見ると、おびただしい数のLINEが届いていた。やはり玄ちゃんからである。18時から勤務が始まる彼は、日中は空いているのだ。
 内容は、倉本くんに関する話ばかりだった。【倉本くんが、死んじゃう!!】【助けに行こう!】とまで書かれている。
 私は、淡々と「今日は朝から大きな発作が起きたから、出かけられない」という事実のみを送信し、以後はスマートフォンには触らなかった。


 一人で午睡をして、ささやかな幸せに浸っていた。いくつになっても、午睡というのは、最高に気持ちが良い。また、仕事をする日であれば、午睡をする・しないで、午後からの能率が、まるで違うのだ。
 熟睡できると、頭の中のゴミが取り除かれて、すっきりする。(学術的なことを言えば、脳内に溜まった老廃物および異蛋白は、睡眠中にのみ排出されていくのである。『アミロイド・クリアランス』というやつである。それが不充分だと、認知症の発症リスクが格段に上がる。)

 すっきりした頭で2階に下りると、藤森ちゃんが帰宅していた。内覧してきた物件について、悠介と話し込んでいる。
 本人の気持ちとしては、そこで「決まり」のようだ。賞与が出たら引越すと、意気込んでいる。
「おかえり、藤森ちゃん」
私が声をかけると、彼女は、しばらく黙って私の顔を見つめていた。
 私の記憶には無い今朝の出来事は、彼女にとっては衝撃的だっただろうから、今も私の健康状態・精神状態が、気になるのだろう。
 素早く筆談具に文字を書く。
【先生、体調は いかがですか?】
「今はもう、何とも無いよ。……ありがとう」
 2人の近くに座ってから、改めて彼女に詫びる。
「私自身は、今朝のことを、何も憶えていないのだけれども。……きっと、驚かせてしまったと思う。……申し訳ない」
 私が癲癇てんかん持ちであることは、面接時に伝えてあるが……例の『思い出し激怒』については、少なくとも私からは話していない。夫や坂元くんから、説明はしているはずだが……。しかし、彼女が実際にそれらを目の当たりにしたのは、今朝が初めてだろう。
【確かに驚きましたが……先生が、今お元気なら、良かったです】
「……君が、優しい子で良かった。ありがとう」
 その後、彼女は私にも、引越す予定の物件について教えてくれた。


 就寝前。寝室で、夫に今朝の自分の様子を訊いてみた。彼は、2人分の布団を敷いている。
「いや……憶えてないんだろ?だったら、それでいいよ」
「私は……君達を殴ったか?」
「殴ってないよ」
「何か……悍ましいことを叫んだか?『火を点ける』とか『殺す』とか……」
私が、交代人格の激昂や暴言について理解・把握しているのは、【彼】が叫んでいる様を、薄れゆく意識の中で聴いた記憶があったり、動画で見せられたりしたことがあるからだ。体外離脱をして、外から見ていたこともある。
 私自身が、似たようなことを叫んでしまうこともある。人としての尊厳を踏み躙られ、生命を脅かされたことに対する憤りは、完全に消え去ることなど無いだろう。特に「加害者への殺意」あるいは「加害者の惨死を望む心情」は、20年以上経っても、消えない。普段は忘れているのだが、何らかの きっかけで思い起こすと、それが、未だに心を支配する。
「まぁ……そうだな。
 でも『叫ぶだけ』なら、別に良いんじゃねえか?俺みたいに、何か壊したりしないし……」
彼は、敷き終えた布団に入りながら言った。脚に布団をかけて座る。
 私は、隣の布団の上に、正座した。
「……私は、君や岩くんを殴ったぞ。何度も」
「もう過ぎたことだよ、それは。 今朝は、殴られてない」
何も、言葉を返せない。
「俺だって、自分の親父を『殺してやりたい』と思ったことは何度もあるし、働いてた会社を『潰してやりたい』と思ったことも あるよ。……今だって『潰れちまえ!』と思ってるよ。
 けどなぁ……そんな、くだらない連中のために、自分が刑務所に入るなんて、馬鹿みてえじゃねえか。『結局、親父と同類なんだ!』って、嗤われるだけだろ?……俺は、それが一番……嫌だ」
私は傾聴する。
「俺は、あんなクズとは違う」
「違うな」
私は頷く。
「……諒ちゃんも、あんなクズ共とは違う。
 諒ちゃんは もう【殺し屋】じゃない。すげぇ本を何十冊も書いて、行き場を失くした人を 何人も救ってきた、立派な【先生】なんだ」
「立派なもんか……」
「立派なんだよ!俺から見れば!……何度でも言ってやるけどな。俺は、諒ちゃんが居なかったら、死んでたんだ!
 ろくでもねえ親に ぼろくそ言われながら、ゲロ吐きすぎて死んでたよ!!」
 私は、心の中で【維摩ゆいま一黙いちもく】と念じながら、脚の間で両手の指を組み、黙った。
「諒ちゃんは優しいから……俺を殴ったとか、追い出したとか、すごく気にするけどな…………俺の実家なら、つまみ出されるとか、殴られて歯が抜けるとか、突き飛ばされて、ガラス割って頭を切るとか……そんなん、日常茶飯事だったからな!?
 気にしなくていいんだ!俺は、気にしてないから!!俺だって、キレたら暴言は吐くし、何かに当たり散らすんだから!お互い様だろ……」
「……そうだな」
 彼がキレたら、私が宥める。彼が倒れたら、私が助ける。私がキレたら……今は、彼が止めてくれる。
「もう、薬飲んだんだろ?……電気消すぞ、ほら」
言うが早いか、彼は枕元に置いたリモコンで、寝室の照明を消してしまった。
「おやすみ!」
「……ありがとう」
 真っ暗な中で、手探りで布団を被った。


 凄惨な年月は本当に長かったが、今の私は、人に恵まれている。
 着目すべきは、そこだ。


次のエピソード
【28.一大決心】
https://note.com/mokkei4486/n/nf841b51c6c34

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