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小説 「僕と彼らの裏話」 30

30.派遣

 複数の店舗で見積りを頼み、最も安く新車が手に入る店で、目当ての車種を注文した。軽自動車とはいえ、新車を「一括」で購入するのは、些か興奮する。サラリーマンだった頃 以来だ。……何年ぶりだろうか?
 納車が、楽しみで仕方ない。

 車の購入に関する用が全て済んだ後は、電車を警戒し、自宅で大人しくテレビゲームか執筆に明け暮れる日々が続いていた。
 ある日、食卓に置いたノートパソコンに向かっていると、床に放置していたスマートフォンに着信があった。先生からだ。
「はい、坂元です」
スマートフォンを左の耳に当てたまま、右手のマウスをカチカチ操作して、書きかけの原稿を上書き保存する。
「やあ、久しぶり。元気かい?」
「……すっかり、暑さにやられております」
「だろうねぇ。道産子どさんこには辛かろうよ」
 僕は頭を掻きながら「そうですねぇ……」と応じた後、ご要件を尋ねた。
「すごく重要な案件だ。……『かねの話』だ」
「は、はい。何でしょうか……?」
十中八九 僕の賞与に関することだろうとは思うけれど、例の『借金取り』に関する話かもしれない。
「悠介が……また、動けなくなってしまってさ。いつ退院できるか、正直わからないのだよ」
「……内耳が、また悪化しましたか?」
「いや……今回は、心臓だ」
どきっとした。
「……心臓?」
すごく嫌な予感がする。こちらの胸が、もやもやする。
「弟の勤務先で……難しい勉強に苦戦して、パニックになったとかで……また盛大に鼻血を噴いて、散々 暴れ回った挙句、不整脈が出て倒れて、救急車の中で【心停止】したらしい」
先生は淡々と語るけれど、それは 非常に まずいことである。
「蘇生は うまくいったよ。今は、しっかり拍動と呼吸がある。ただ……一度 倒れたっきり、意識が はっきりしないんだよ」
僕は力無く「そうですか……」と応える以上のことは、何も出来ない。
 父の「突然死」が、脳裏をよぎる。……心疾患というものは、本当に恐ろしい。
「あいつを『預けっぱなし』にして、私だけ そちらに帰るのは……嫌なんだ」
「はい……」
当然の心理だろう。
「しかし……私が出払ったままだと、君の仕事が無いだろ?」
「いえ、僕のことは、どうか お構いなく……」
「そうはいかない」
 先生が独身だった頃の ご旅行なら、一時的に僕の仕事が無くなっても「次のボーナスは弾むから!」という一言で済んでいた。(先生は、唐突に思い立って、一人で湯治や海外旅行に行ってしまわれる時がある。)

「……君は、旋盤の使い方が解るだろ?」
「ほとんど忘れましたよ……」
「また向き合えば、思い出すだろ」
「……どういうことですか?」

「悠介の勤務先を、手伝ってやってほしいんだ」
「……あの、ゴム屋さんですか?」
「そうだよ。……私の家と同じ時給で働けるように、社長に頼んでやるから」
畏れ多くも、ハウスキーパーとしての僕の時給は2000円である。補償を兼ねた賞与が入るまでの期間をアルバイトで食い繋ぐにしても、それだけの高時給が頂ける仕事を他で探すのは、極めて難しいだろう。


 体力的な不安はあったけれど、僕は先生の提案を受け入れることにした。可能な限り貯金は減らしたくないし、引越しまでの間、ずっと自宅に潜伏していても しょうがない。
 僕は電話を切るなり、パソコンの電源を切り、箱にしまい込んであったノギスや定規、巻尺を引っ張り出した。作業着に出来そうな衣類も、探し出す。



 約束の日が やってきて、先生の車では何度も通ったあの工場に、久方ぶりに電車を使って赴く。先生と同じように、あえて少し遠い駅を選んで、長めに歩く。この道は先生にとって、神聖な場所に向かうための【参道】だ。僕も、なんだか気が引き締まる。

 僕は、まずは日勤の社員の「定時」を過ぎた時間から、勤務を始めてみることにした。僕の経験上、町工場における朝一から定時までの時間帯というのは、医療機関に匹敵するほどの緊迫感を持った【時間との勝負】が続くからである。取引先や運送屋が受取りに来る前に、全ての製品を完成させ検品・梱包までを完璧に終えなければならない。万が一、夕方に納品する品を、当日の朝から造り始めるようなことになったら……全ての工程において、如何なる失敗も許されない。それは、耐え難いプレッシャーである。そして、そのような時の現場の緊張感は凄まじく、先輩社員に事実確認をすることさえ憚られる。(怒鳴られる確率が極めて高い。)
 臆病かつ慎重な僕は、熟練者に教えを乞いながら、翌日以降に備えて じっくりと製品造りに取り組める【夜間】でないと……動けない。

 すっかり日が暮れた頃、あの町工場に たどり着いた。何度来ても変わらない「場末」の空気感に、言いようのない安心感を覚える。
 事務所に顔を出すと、見慣れた事務員さんが笑顔で迎えてくれて、タイムカードの場所や押し方を教えてくれた。
 彼女は、2階にある更衣室や給湯室のことも、一緒に上がってきて、丁寧に教えてくれた。

 僕は、既に作業着を着た状態で来ている。与えられたロッカーに、荷物を置くのみである。
 更衣室の中の社員用ロッカーには名札が付いているけれど、バイト用は番号札である。僕は9番に私物をしまい、すぐに現場に向かう。

 僕は「松尾ちゃんの お迎えに来る人」として、社内では すっかり顔が知られている。彼が体調不良で早退する時、基本的には僕が先生の車を運転して来て、彼を連れ帰っていたからだ。(彼は、一部の従業員からは未だに旧姓で呼ばれている。)
 僕が社長を探すべく現場に入ると、若手はいつも通り会釈をしてくれたし、パートのおばさん達は手を振ってくれた。
 あの飯村さんが手動の研削盤に向かっているのを見つけたけれど、作業中の彼は僕に気付かなかった。

 1階の最深部まで進むと、社長が背中に工場扇の風を受けながら、黙々とフライス盤に向かっていた。僕は扱ったことがない機械だけれど、吉岡先生曰く「あの現場で、最も難易度が高いマシーン」であり「人の魂を喰う」のだという。
 しかし、今この社長の魂は、喰われてはいないだろう。淡々と、自らの意思でレバーを降ろし、数センチ四方の小さな製品に、直径 数ミリの穴を2つずつ、ひたすら あけ続けている。既に数百個分の穴あけが終わっているけれど、残りも同じくらいある。
 彼女は今、使い捨ての防塵マスクを着けて、何やら特殊な色のレンズを使った スポーティーなデザインの眼鏡をかけている。(他の場所で会う時は、いつも裸眼である。)
 不用意に声をかけて驚かせてしまわないよう、社長の視界に入りそうな位置に黙って立つと、社長は、迫り来る敵を睨むかのように眼球だけを動かして、レンズの脇から僕の姿を見た。
 そうしたら、すぐさま機械の回転を止め、マスクを下げて満面の笑みを見せてくれた。
「お待ちしてました!」
硬いマスクの跡が、顔に くっきり残っている。

 挨拶を交わしてすぐ、僕は常務のもとへ連れて行かれた。
 2階の奥深く、僕は存在すら知らなかった小さな部屋で、老眼らしい定年間際の常務が図面を睨んでいた。(そして、相変わらずの“ビール腹”である。)
 部屋の中には、子ども用ではないかと思うほどに小さく、ゲーム機か調理器具のように色鮮やかな工作機械が、4〜5台並んでいる。機械はどれも、ハンドルで高さを自由に変えられる特殊な台の上に据え付けられている。
 常務が、図面から顔を上げる。
「おはよう、坂元ちゃん。もう少し待ってね。今、セットしてるから……」
「は、はい」
 小さな可愛い旋盤に、半透明の黄色い樹脂と思われる材料をセットして、それを切る刃物の位置を調整している常務の手元を見ながら、自分も手を動かして、かつての『愛機』に関する記憶を辿る。
 社長は、僕への指導を常務に託したら、階段を駆け降りて ご自分の仕事に戻っていった。

 何個か試しに素材を切ってみて、狙っていた数値が出たという常務に、僕は尋ねた。
「此処は……試作品を作る部屋ですか?」
「いや……『下拵え』の部屋かな。そのまま出荷できる製品を造る時もあるけど。……粉とか煙が駄目な人に『小さいのを穿つだけ』とか『刃物で切るだけ』の作業をやってもらうの」
確かに、この部屋には「粉塵」が ほとんど無い。(何かに穴をあけた時に生じる、円柱形の『抜きカス』は たくさん落ちている。)
「……要は、吉岡ちゃんが遊ぶために作った部屋だよ」
「えぇ!!?」
「あと、松尾ちゃんや他の子が、キレてキレて、どうにもならない時……一人で此処に入れるの。他の子に怪我させると、いけないから」
「な、なるほど……」
合理的かつ良心的なアイデアだと思った。
「坂元ちゃんは呼吸器が悪いって、聴いたから。まずは此処の仕事を頼むよ」
「は、はい!」
 常務は、何をいくつ造ればよいのか、機械は どう扱えばよいのか、改めて教えてくれた。
「じゃあ……まずは、一回やってみて」
「はい!」
 スイッチを入れると、素材が取り付けられた軸が、回転し始める。手前にある小さなハンドルを手で回すと、連動している部位が動き、刃物が素材に近づいていく。高速回転している素材に、慎重に刃物を突き刺し、しばらく当てていると、いびつまるい形が、綺麗な【正円】になる。
「おぉー。さすがは経験者だね」
「とんでもないです……」

 僕が加工した製品を、常務にノギスで測ってもらう。
「…………ばっちりだね。あと2〜3個やってみてよ」
 4個目まで測り終えたら、常務は満足げに笑ってから「完璧だ!」「あとは、よろしく!」「終わったら呼んで!」と言い残し、部屋から出ていってしまった。


 残された僕は、ひたすら、中心に穴のあいた樹脂の板を、指定された外径の正円に加工し続けた。
 かつて従事した金属加工の時ほど、機械や素材は熱くならない。潤滑油を塗った刃は至極 滑らかに樹脂に刺さり、音も無く進んでいく。(厳密には旋盤の作動音がするけれど、刃や素材から騒音や火花が出るわけではない。非常に静かで、心地良い。)
 そして、これだけ機械が小さければ、体躯を攫われて ぶん回される心配も無いし、主軸の回転によって吐くほど目を回す心配も無い。作業の【主導権】は、完全に僕が握っている。確固たる安心感と、自己肯定感が在る。

 都会の喧騒や、全ての【視線】や【嘲笑】から解放された、僕一人だけの時間……。心が、安らぐ。
 出来上がる物は美しく、ただひたすらに、気持ち良い。

 黙々と作業に取り組み、一時間で……80個くらいは出来た。(全部で250個 加工しなければならない。)
 これなら「1000個やってくれ!」と言われても、苦にならない気がした。

 僕は、ものづくりの仕事そのものが厭になって辞めたわけではない。
 黙々と何かを造ること自体は……純粋に、すごく楽しい。

 悠介さんが抜けた穴を、僕が埋められるとは到底 思わないけれど……僕は、ここで再び【学び直し】が したいと思った。
 そして、それは今の僕にとって最善の【治療】となる気がした。


次のエピソード
【31.双璧】
https://note.com/mokkei4486/n/nd2dd0d2c49a1

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