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小説 「僕と先生の話」 15

15.秘宝

 復職2日目。僕が出勤すると、彼はまだ先生の家に居た。(昨日とは違うトレーニングウェアである。)

 昼食後、先生は「弟の生存確認に行ってくる」「夕飯までには戻る」と言い残し、車で出かけていってしまった。

 この家で留守を預かるのは、初めてだ。
「岩下さん、今日は何時まで居ますか?」
もはや『お決まり』になりつつある質問だ。
「先生がお戻りになるまでは、待機しようと思いますが……今夜は、自宅に帰ります」
「晩ごはん、どうしますか?」
「お気持ちだけ頂戴します」

 僕が、昨日の買い出しに関する事務仕事をしている間、彼はタブレット端末でメールの送受信やスケジュール管理らしきことをしていた。
「あの……僕は、編集者という職業について、ほとんど知らないのですが……毎日出社する必要があるわけではないんですか?」
 僕は、パソコン用の椅子に座ったまま、座布団の上で黙々と作業に勤しんでいる彼に、質問を投げかけた。彼がこの家に来る頻度は、今後の食費の使い方に関わってくることだから、彼の働き方について少し訊いておきたかった。
「私の勤務先は、そうですね。むしろ、作家さんの仕事場や、印刷所に顔を出す頻度のほうが、高いかもしれません。
 漫画や小説の出版なら、デジタル原稿をインターネットを介して送り交わしたり、共有したりするのが『当たり前』となりつつありますが……絵本だけは、今もアナログ原稿と紙媒体での出版が多数派といえます」
僕の意図なんて知る由もない彼は、淡々と『説明』を始める。
「……他の作家さんの家でも、食事したり、昼寝したり、するんですか?」
「しません」
ぴしゃりと言い切ったが、怒りも苛立ちも感じさせない。笑いもしない。私情は一切 出さないで、淡々と『情報』だけを口にする感じだ。
 先生の独り言について訊いた時を思い出す。
「私は、業務の一環として、吉岡先生の健康管理のお手伝いをしています。上司からの指示であり、弟さんからのご依頼でもあります。だからこそ、妻の協力が得られます。……ご家族と同居している作家さんのご自宅に、私が泊まり込むことはありません」
彼の手は、ずっと動いている。
「吉岡先生は……並外れた集中力と、持久力をお持ちです。作家としては『素晴らしい才能』と言えますが、あまりにも長い間、寝食を忘れて創作に のめり込むのは、先生の健康上、決して良くはありません」
 僕が思うに、彼は、私生活においては寡黙であるはずだ。しかし、何らかの事項について「業務の一環として、口頭で報告・解説する」技術は高い。長い文章の中に、無駄はない。そして、今 僕が聴かされている話は、個人的な意見ではなく「業務に関する重要な連絡事項」だろう。
 彼は、タブレット端末を操作するのをやめた。
「先生は……ご自分の意思でアトリエに篭って仕事をなさることが、とても多いのですが、室内で過ごす時間が長くなり過ぎると、閉じ込められていた当時のことが、頭から離れなくなってしまうのです」
「あっ……」
僕は、日を追うごとに、過去の『事件』のことしか言わなくなっていく先生を、目の当たりにしたことがある。
「長い時間、一人でアトリエに篭っていると、ご自身が【自由】であることを、忘れてしまわれるのです」
返す言葉がない。
「疲れたら休めばいいし、いつでも、自由に出歩いて、好きなものを買って、自由に食べても良いのだということを……すぐに忘れてしまわれるのです……」
彼の眼が、赤くなってきた。
「だからこそ、私が何度でも言うのです」
 彼は、昨日も全く同じ文章を口にしていた。2人にとっては、合言葉なのかもしれない。

「岩下さん、何年くらい先生の担当されてますか?」
「……10年近くになります」
想像以上に長いな。
「インターネット上で、ワーク・ライフ・バランスと精神疾患に関する、素晴らしいブログを書かれていた先生に、私からコンタクトを取りました。
 当時の私には……編集者としての実績は、何もありませんでした。高度な専門知識と、確かな文章力をお持ちの先生に……すがりつくような思いでした」
まるで、自身が過去に犯した罪を告白するような、暗い顔だ。「素晴らしい才能の持ち主を発掘した」という、喜ばしい話ではないのか?

 彼は、自分の脚の上に置いたタブレット端末に視線を落とし、黙り込んでしまった。
 僕は、パソコンの電源を切った。
 ロボットの充電が切れたみたいに、彼は動かなくなってしまった。表情が消え失せ、目はうっすら開いているけれど、画面を見ているわけではない気がする。
 日頃の疲れが出て、頭が ぼんやりしているのだろうと思った。

 彼のスマートフォンに着信があり、5回目くらいのコールで、やっと彼は動き出し、渋い顔で「編集長からです」とだけ言うと、それを持って1階に消えた。

 僕は、2階の掃除に着手した。
 床に掃除機をかけるため、彼のタブレット端末を拾い上げて食卓に載せ、散らばっている座布団を一箇所に集めて横一列に並べる。全ての窓を開けてから、充電済みのコードレス掃除機に、まずは布団用のノズルを付ける。
 全ての座布団の両面に、念入りに掃除機をかけて綺麗にしたら、掃除機のノズルを替える。部屋の隅に座布団を積み上げることにして、まずはその場所の床を掃除する。
 座布団を運ぶ。
 電話を終えた彼が戻ってきた時、僕は昨日から置きっぱなしになっている将棋盤をどうすべきか訊いた。
 彼は「そのままでいいと思います」と、いつも通り端的に、そして流暢に答えた。
 もう、目が覚めているらしい。

「呼び出し、ですか?」
「いいえ……後日でもいいような、くだらない用件です」
 声や表情に、編集長に対する敵意が滲み出ている。過去に大怪我をしていて腕に後遺症がある彼に「スマホは声で操作できる」として、容赦なく仕事を命じる上司というのは、きっと編集長のことだろう。
 彼は、手に持っていたスマートフォンを少しだけ操作してから、ズボンのポケットに入れた。その動作から、苛立ちが見て取れる。

「先生が ご不在だからこそ、申し上げるのですが……」
座っていた座布団が無くなっているためか、彼は立ったまま話し始めた。左手で自分の首や肩を掴むように摩りながら、何かを探すように視線を泳がせている。
「吉岡先生は……出版社側としては『稼げる作家』ではありません」
 電話の内容が、本の売上に関することだったのだろうか。
 予期せぬ話に、僕は少し驚いたけれど、その一言で、彼が編集長を敵視する理由がほとんど全て判った気がする。
「吉岡先生は、ご自身の描きたいものに対するこだわりが強く、何度でも推敲や描き直しをなさる、筆の遅い方です。世間的な流行にも、まるで ご興味がありません……」
「僕も、そう思います」
彼は、触っている箇所に痛みがあるのか、怒りや悔しさによるものなのか、表情は険しい。それでも、口調は冷静さを保っている。
 今、掃除機のスイッチを入れるわけにはいかない。
 彼は、至って真剣に話している。
「とはいえ、出来上がる作品は、本当に素晴らしいものです。古くからのファンには、根強い人気があります。……しかし、子どもが読むには、内容が難しいからと……本の人気は、あまり伸びてはいません」
確かに、先生が書く物語は、小学生には難しい気がする。……むしろ、保護者や教員の心を打つはずだ。
「それでも、私は、吉岡先生の絵本が『小学校の図書室に在る』という事実が、何よりも重要なことだと思っています。少子高齢化が止まらない上に、未成年者の自殺率が非常に高いこの国で、未来を担う子ども達に『命を粗末にしないでほしい』『今いる場所が辛いなら、逃げればいい』と伝え続けることは、大きな意義があります。
 また、高齢者となっていく成人に、作品を通じて【生活の質】について問いかけることも、非常に重要なことです。
 吉岡先生の作品の価値は、売上金額の大小で計るようなものではありません」
 彼はもう、自分の体のことなど全く気にしていないだろう。学校教諭が生徒に何かを力説する時のように、両手は話に合わせて ずっと動いている。
「私は、数百年先の未来にまで、先生の作品を遺したいのです。素晴らしい物語と共に、言語としての日本語を守り、後世に伝えたいのです。……だからこそ、紙媒体での出版に、こだわっているのです」
 壮大な話だけれど、すごく現実味がある。
 いつだったか、先生が彼を【国の宝】と言っていたけれど……誇張ではなさそうだ。
 返す言葉に迷ったけれど、ふと思い出した。
「……え、小学校に置いてあるって、凄くないですか?」
「全国の学校にあるわけではありませんよ、もちろん……」
「いや、それでも凄くないですか!?」
「……先生は、偉大な方ですから」
(そこに導いたのは、貴方でしょう!?)
彼は、とても満足そうに、にこにこしている。電話の直後とは、別人のようである。
 人遣いの荒い編集長が何と言おうと、彼は自身と先生の実績に、心から満足しているのだろう。

 そんな偉大な先生の自宅で働いていることが、畏れ多いと同時に、不思議で たまらない。
「……僕、この仕事がんばります」
「ご無理だけは、なさらないでください」
「……お気遣い、ありがとうございます」
 彼も、偉大な人だ。

 僕は、そろそろ掃除の仕事に戻りたいと、動きで彼に伝えた。聡明な彼は、すぐに察した。恭しくお辞儀をしてくれた後、例のタブレット端末を持って、再び1階に下りていった。


 僕が2階の掃除を終えてから、夕食の準備に取りかかるより先に、先生が帰ってきた。インターホンが鳴り、僕が応答する前に、鍵を開ける音がした。
 僕は、2階まで上がってきた先生を出迎えた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 先生は、結構な量の古新聞が入った紙袋を、両手に提げている。
「その新聞、何ですか?」
「弟が読み終わったやつだよ。私も読ませてもらうけれども……その後は、創作に使うんだ。あいつの生存確認も兼ねて、毎月もらいに行くことにしているんだよ」
ほとんどテレビを観ない先生の、大切な情報源でもあるのだろう。
「善治さんは、お元気でしたか?」
「あぁ、うん。元気は元気だね。でも……相変わらず、ろくでもない臭いがしたよ」
(部屋が、か?)
掃除をする暇も無いほど、忙しいのだろう。

「……明日にでも、私はあの会社で部長さんに会ってくるよ」
「えっ……!?」
「事実確認がしたい。……あいつの世界観も、かなり偏っているから。本人の言い分だけを、鵜呑みにするわけにはいかない」
 何があったのかなんて、訊くつもりはないけれど……なんだか嫌な予感がする。
「明日、僕は出勤しないほうがいいですか?」
「いや。君が帰ってから、出かけるよ」
夜間に行くのか。
「どうか、お気を付けて……」
先生の体調だって、万全ではないはずだ。

「……さて。そろそろ、岩くんを帰してあげよう」
古新聞を床に置いて1階に下りていく先生に、僕も同行した。
 和室で布団を敷いて寝ていた彼は、先生が帰宅したことには、もちろん気付いていなかった。先生に起こされた直後は、誰が来たのか判っていない様子だった。
「あ、おかえりなさい……」
「奥様とは、仲直りできたかい?」
おそらく、先生には泊まり込みの理由として「喧嘩をして、追い出された」とか何とか、悪意のない嘘が伝えられていたのだろう。
「もう……忘れてるんじゃないですかねぇ……?」
彼は、自分の家で家族と話すかのように、欠伸をしながら応えた。先生は「それなら良いけれども」と、笑っていた。
 僕は「そのままでいいですよ」と言ったけれど、彼は律儀に布団を畳んでから、着替えもせずに自分のリュックを背負って、のんびりと帰っていった。先生に善治のことを訊いたりはしなかった。


 僕は、その日の退勤後に、ようやく書店で先生の絵本を数冊買うことができた。
 しかし、偉大な彼の名は、どこにも載っていなかった。


次のエピソード
【16. 出張】
https://note.com/mokkei4486/n/n97eb0e345fb4

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