小説 「吉岡奇譚」 12
12.深淵
藤森ちゃんが出勤し始めて、3日目。
私は「恐竜の話を書く」と決めたので、一人で博物館に来ていた。朝一から入館し、展示物をスケッチしたり、参考に出来そうな書籍をじっくり選んで購入したりしているうちに、あっという間に正午を過ぎた。(購入した書籍は執筆に必要な資料なので、費用は経費で落ちる。)
博物館を出て、一人で適当な店に入る。「昼食は要らない」と、ハウスキーパー達には伝えてある。
食事を終えて帰宅後、台所で夕食用の米を炊こうとしていた藤森ちゃんに、私は、買ったばかりの書籍を表紙だけでも見せようと思った。彼女も大変な恐竜好きだからである。
「ただいま。藤森ちゃん、これ……」
私が差し出した分厚い専門書を見て、彼女は些か興奮気味だった。無声音でも「うわ!」と言ったのが分かる。
しかし、濡れた手を いそいそと拭いている彼女の腕を見て、私は言葉を詰まらせた。
彼女の左腕には、かなり広範囲に火傷の痕がある。古いものだとは思うが、重度のものの痕跡で、また、よく見れば熱傷だけではなく……整然と並んだ、切傷の痕がある。本人に訊くまでもなく、切りつけた上から、アイロンか何かで焼いた痕だと判る。
すぐに、捲っていた袖を戻し、書籍を手に取って「中を見てもいいですか?」と言わんばかりに私を見上げている彼女に、私は「待機時間なら、見てもいいよ」と言った。
彼女は、蓋が開いたままだった炊飯器を閉めてスイッチを入れると、書籍を持って速やかにリビングに移動した。普段の食事の席に座り、真新しい専門書のページを、パラパラとめくる。
私は、彼女の退勤後なら、いくらでも あの資料を見られる。あれは資料室に置いて、彼女が出勤している間は、自由に見せてやることにした。
後日、坂元くん一人が出勤の日に、私は掃除中の彼を捕まえて、彼女の日頃の様子を訊いた。
「特に、問題は無いですよ。掃除はプロ級に巧いし、調理も得意そうだし……よくメモを取って、熱心に勉強してます」
業務に関しては、そうだろう。
「君は……彼女の腕を見たかい?」
「……見ました」
「あれは……自傷の痕だよ。おそらく」
「僕も、そう思います」
彼は、至って冷静である。
「それでも……今は普通に動かせますし、痛みは無いそうなので。業務に支障は……」
彼は、同僚の傷痕を見たくらいで、いちいち動じない男である。
「精神症状のようなものは、見受けられるかい?すぐパニックになるとか、何かを極端に怖がるとか……」
「まだ一週間くらいなので、何とも言えません」
「まぁ、そうか……」
「本人からは、申告は無かったんですか?」
「声のこと以外は、何も……」
「……いちばん重要なのは、そこですもんねぇ」
「それに、彼女は通院をしていないからね……申告するような『病名』を知る由もないんだろ」
「治療を望まない、ということですか?」
「経済的な理由のようにも思えるね」
彼は、何も言わなかった。
「いずれにせよ、彼女に何かあれば、すぐに報告してくれよ。私も、重要な時期なんだ……」
「わかりました」
私が これまでに、彼や夫、岩くんに対して、してしまったようなことを……彼女にまで、するわけにはいかない。
その日、坂元くんの退勤後に帰宅した夫は、一人で遅い夕食を終えた後、欠伸をしながらテレビを観ていた。私は、そこへ行って、ささやかな頼み事をした。
「悠介。野暮なことだとは思うのだがね……」
「何だよ」
「藤森ちゃんの腕には、すごく大きな火傷の痕があるんだ。水仕事をする時、腕捲りをするから丸見えなのだけれども……それについて、何も言わないでやってほしいんだ」
「言わねえよ。……俺の腕が機械でも、何も言わなかった子だぞ?」
「……だから、野暮だと言ったんだ」
夫は、また欠伸をした。
「でも……今どきの技術なら、消せるんじゃねえのか?金さえあれば」
「その『金』を用意するのが、いちばん大変なんだよ……」
夫は、今度は頭を掻きながら ため息をついた。
「よっさんは、すげえなぁ……」
私の弟のことである。
彼は、海外赴任中に貯め込んだ多額の貯金で、帰国後には自分のものだけでなく私の奨学金まで完済し、今も尚、この家のローンとハウスキーパー2人の人件費を支払っている。
弟の年収は、夫の年収の3倍はある。彼の経済力が無ければ、私達の、今のような快適な暮らしは成り立たない。
「俺なんか、もう、ガラクタだよ……」
「やめろ。そういう事を言うのは」
夫は、ぽりぽりと耳周りを掻いてから、また欠伸をした。
「早く寝なよ」
「……そうだな」
翌日。午睡から覚めた私は、彼女が資料室内の椅子に座って泣いているところを目撃した。
「どうしたんだ。何かあったのかい?」
見過ごすことは出来なかった。
彼女は、読んでいた本を閉じて、著者名を指さした。彼女の、亡き父の名である。
(死別の悲しみは、病理ではない……)
「お父様のことを思い出して、悲しくなったのかい?」
彼女は、ポロポロと涙を零しながら頷いた。
「まぁ、そんな日もあるだろうね……私も、義妹が亡くなった時のことを、ふと思い出して、泣いてしまうことがある」
今、彼女の手元には筆談具もスマートフォンも無い。
私は、彼女に「少し待っていなさい」と言ってから、寝室内に保管している新品のティッシュを1箱開け、資料室に戻った。
彼女に、箱ごと手渡した。
彼女は、それをきちんと両手で受け取りながら、謝意を込めて頭を下げた。父親の著書は、机に置いた。
私は、4つある椅子のうちの1つ、彼女が座っている位置の正面にある椅子に座る。
「私の弟の奥さんはね……27歳で亡くなったんだ」
彼女は今、長い文章での返事が出来る状態ではないため、ただ黙って聴いている。
「ひどい風邪をひいていたのに、仕事を休むわけにはいかなくて、たくさんの薬をあれこれ混ぜ合わせて飲みながら、無理を押して働き続けて……身体が壊れてしまった」
最終的には、義妹は遺書に代わるメールを友人に送信した上で、意図的に過剰服薬をして死亡したのだが、私は、この場では自死であることを伏せた。
「弟は……今でも、彼女の誕生日には、美味しい物を食べて、ささやかな お祝いをするんだよ。彼女が生まれてきたからこそ、幸せな時間があったからと言って……亡くなった命日より、誕生日を大切にしているんだ」
厳密には、彼女の「命日」は、推定の日付なのである。死後、おそらく数週間が経ってから、自宅で遺体が見つかったため、正確な死亡日時は分からない。先に火葬を終え、遺骨となった状態で葬儀が行われた。(文面は直接的な表現ではなかったため、メールを受け取った友人が「遺書ではないか」と気付くまでに、随分と日数がかかった。勤務先の関係者の中に、音信不通となった彼女の安否確認にまで踏み切った人間は居なかった。)
藤森ちゃんは、至って真剣な表情で、私の話に耳を傾けてくれている。まだ、涙は止まらない。
「ごめんよ。返答に困る話をしたね」
私は立ち上がり、本棚から自身の著書を数冊だけ選び取った。
「此処にある物で良かったら、好きなだけ読みなさい」
彼女にそう伝えてから、私は資料室を出て、アトリエで作業を開始した。次回作の主人公として描きたい恐竜の種が決まり、私はそれらを描く練習を始めた。
私は、確かに幾度となく獣のような扱いを受けて、死ぬほどの侮蔑に苦しみ、今も尚、それを完全に忘れ去ることは出来ないのだが……それでも、こうして生きている。この身体には生命が残っている。「せっかく拾った生命で、何かを成し遂げたい」「生き抜いたという事実を、無駄にはしない」……それが、私の創作意欲の根源であったはずだ。
差別や偏見によって生命を奪われかけた日もあれば、【生存】そのものを理由に嘲笑を浴びた日々もあり、その時に受けた苦痛や、加害者集団に対する憤りに、心を囚われてばかりいるのだが……折にふれて、義妹の最期について思い出すたびに、私は、自身が「それでも、生きている」という事実について、はっきりと自覚することが出来る。
普段「叩きのめされた」「屈服した」「負けた」としか思えない経緯について、ただ【生存】のみを根拠に「私は、意地汚い連中の悪意に、負けなかった」と、言うことが出来るようになる。
もちろん、義妹が何かに「負けた」とか、そういうことではない。私には、彼女が生命を賭してまで打ち込んだ研究テーマを、否定することはできない。むしろ、私が義妹の死に対して抱くのは「同じ国に住んでいたのに、何もしてやれなかった」という事実に対する後悔である。
一人の従業員に対して「入れ込み過ぎだ」と笑う人があるかもしれないが、私は……彼女を失いたくはない。私や義妹のような悲惨な目には、遭わせたくないのだ。
次のエピソード
【13.罵詈雑言】
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