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小説 「僕と彼らの裏話」 49

49.難しい挑戦

 僕が先生宅の2階でタイムカードを押していると、先生が分厚い紙の束を持ってきた。
「これを見たまえよ、坂元くん」
随分と、ご立腹な ご様子だ。
「何ですか?」
「岩下の“大先生“による、添削の結果だ!」
先生は、例の児童文学を他社の新人賞に応募する前に、哲朗さんに添削を依頼したのだという。(応募先の関係者に知られたら、まずい事のような気がする。)
 受け取った紙の束を、クリップが付いたままパラパラとめくってみると、どれもこれも、見るも無惨に「真っ赤っか」にされている。彼が、修正すべき箇所に赤ペンで印を付け、必要ならコメントを添えているのだけれど……吉岡先生らしからぬ、酷い直されようだ。1ページ丸々、大きな赤い×印が付けられているところさえある。
「あの野郎……さては『病院送り』を根に持っていやがるな!!?」
先生の口調と声色が、一瞬で変わった。久しぶりに見る、人格の交代だ。
(メインでこれを書いたのは【彼】なのか……?)
 哲朗さんを、あそこまで ぶちのめしたのは【彼】だし、先生の「主たる人格」とは、揺るぎない絆で結ばれている哲朗さんでも、攻撃的な【彼】とは相性が良くなかったり、仕事の場面では意見が食い違って口論になったりするようなことも、あるのかもしれない。
 とはいえ、彼は殴られたことを根に持つような人ではない。
 哲朗さんは時に、冷徹なまでに「日本語としての正しさ」に こだわる人である。書き手との関係性はわきに置いて、原稿の内容だけを真摯に見た結果が……今回の これなのだろう。
「書き直すしか、ありませんよ……」
「おまえまで、そんなことを言うのか!!」
「……悠介さんと一緒に考えた、大切な物語なんでしょう?……何度でも直して、日の目を見せてやりましょうよ」
それを聴いた【彼】は、ぐぬぬぬ……と唸って、黙り込んだ。
 やがて、まっすぐに僕を見ていた先生の眼が左右に ふらふら揺れ始め、しだいに項垂うなだれてゆき、上体もふらふら揺れ動き出した。それは癲癇てんかん発作の前ぶれかと思うような動きで、僕は少し焦ったけれど、先生はすぐに意識を取り戻し、頭を押さえながら、僕に「すまない……」と詫びた。
「目眩がしましたか?」
「そうだな。……ほんの、数秒かな?意識が飛んだ気がする……」
「お疲れなのでしょう」
「うーむ……。昨日、久方ぶりに岩くんと『ガチの論争』をしたからなぁ。気疲れしたんだろう」
「ゆっくり休んでください」
先生は、ため息で応じた。
「ところで、先生。悠介さんは……」
「今日も上に居る」
彼は退職して以来、朝が来ても起き出せない日が増えた。
「昼食が出来たら、呼びに行ってやろう」
「わかりました」

 ところが、彼は僕らが呼びに行くまでもなく、自ら下りてきた。先生は、喜びの込もった声色で「おはよう」と言って迎えたのだけれど……彼は、至って真剣な面持ちで、先生を抱き寄せた。がっしりと力を込めて抱きしめて、短い左腕を背中に回し、右手で、先生の頭を後ろから支えるように、撫でるように……何度も触れる。
 それには、先生も僕も、驚いた。
「どうしたんだよ!?もう、坂元くんが来てるぞ……!!」
僕がすぐ近くに居ることにも、先生の反応にも一切構わず、彼は、身体が芯から震えているかのような息遣いで、ずっと先生の頭や背中に触れている。……泣いているかもしれない。
 先生も、それが「愛情表現」の類ではないらしいことに気付いて、彼を心配し始めた。
「どうした?……何か、恐ろしいものを視たか?」
先生は抱き寄せられた状態のまま、彼の背中に腕を回し、さすったり、叩いたり、どうにか働きかける。それでも、彼はずっと先生の体の背面を撫でている。
 僕には、それは彼のほうが幻覚等に怯えて すがり付いているのではなくて、先生の大声を聞きつけた彼が、心配のあまり2階に下りてきて、必死に先生の怒りや動揺を鎮めようとしているように思われた。
「……座ろう、悠介。とりあえず、座ろう」
先生に何度も促されて、やっと体を離し、食卓周りに並んだ座布団の一つに腰を降ろした彼は、改めて先生の手を掴んだ。
「りょ、りょ……諒ちゃん……。お、お……」
ぼろぼろ泣きながら、とても苦しそうに声を絞り出す。
 彼は「言葉によって人を傷つけてはいけない」という強迫観念が強すぎるためか、あの長期入院を境に、何か少しでも言葉を話そうとすると全身が震えてしまうようになった。過度の緊張で、そのまま失神するのではないかと思う時さえある。
 先生は、彼の側に腰を降ろし、自分の左手を掴んで離さない彼の手を、空いていた手で包み込むように握った。
「私が、またテレビを壊すと思ったかい……?」
やがて、その手で彼の肩を ぽんぽんと優しく叩きながら、小さな声で何度も「よしよし」「大丈夫だよ」と宥めた。
「不安にさせてしまったなぁ。……ごめんな」
先生に肩を叩かれながら、ぽろぽろと涙を零している彼は、つい数ヵ月前に40歳を迎えたとは思えないほど、幼く見える。病によって心身が「弱る」というのは、そういうことなのだろう……。
 やがて両手が自由になった先生は、僕がずっと持っていた紙の束を受け取りに来て、すぐさま彼の隣に戻った。
「ほらほら、見てごらんよ。この真っ赤な紙を……」
彼が見ている前で、パラパラとめくってみせる。
「……酷いもんだろう?私と悠介が、一生懸命、考えたのに……。それで、私はムカついたのさ」
彼は、絵本を読んでもらう幼子のように、じっと原稿を見ている。
「だが、まぁ……ちゃんと直すよ。それが私の『仕事』だからね」
 先生が動揺していた理由が判明し、何より「今はもう怒っていない」と判ったためか、彼は次第に落ち着いていった。1階で着替えてから再びリビングに戻ってきて、新しく買い換えたテレビでお気に入りの特撮ヒーロー番組を観ながら、僕が昼食を作り終えるのを待っていた。
 先生は、真っ赤な原稿を3階のどこかに置いてから、彼と一緒にその番組を観ていた。


 人格の交代に伴う記憶障害のある吉岡先生にとって、安定した文体で長編小説を書くというのは、難しいことであるはずだ。
 それでも、先生は挑戦をやめない。
 大切な ご家族のために、盟友と共に何度でも推敲と修正を重ね、時に激論を交わし……いつかきっと、文学史に残る名作を書き上げられるはずだ。僕はそう信じている。

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【50.逆鱗】
https://note.com/mokkei4486/n/n5b7725c76f02

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