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小説 「長い旅路」 16
16.新たな予兆
動物園でサイを眺めながら、あるいは先生宅の資料室に篭って、大学ノートやスケッチブックに「落書き」をするのが、日課になった。
主たる目的は「頭の中の整理」と「ボールペンで綺麗な字を書く練習」だが、本で見つけた素晴らしい言葉や、先生や悠さんから聴いた印象深い言葉を、書き留めておくことにした。
この日も、見慣れたサイを前に、彼らとは全く無関係な言葉を書き連ねていた。
黙々と字を書く俺の隣に、座った人がいた。本来「踏み台」として造られた これに座る人は、珍しい。
「こんにちは。……何を書いてるの?」
まさか、声をかけてくるとは思わなかった。
相手は自分と同年代と思われる男性で、中肉中背、どこにでも居そうな風貌だった。動物園へ遊びに来ているにしては小綺麗なシャツを着て、ブレスレットや指輪といったアクセサリーも着けている。ここが「主たる目的地」ではなく、何かの空き時間に たまたま寄ったのだろう。
黙って、ページを開いたままにしていたら、彼は それを覗き込んだ。
「これは……歌詞?」
違う。吉岡先生の絵本から抜粋した言葉だ。
俺が答えずとも、彼は構わずに話題を変えた。
「お兄さん、ほとんど毎日来てるでしょ?」
それに気付いているということは、こいつも かなりの高頻度で来ているはずだ。
「年パス持ってるの?」
(初対面のくせに……何なんだ、こいつは……)
相手が会話を諦めることを望みながら、スケッチブックに【僕は、耳が悪いのです】と書いた。
「あ、そうなんだ……」
ページに目を落としたまま、彼は言った。
その後、彼は俺が手にしているボールペンを「使いたい」と身振りで示し、渡してやると、スケッチブックまで無言で奪って何かを書き込んで見せてきた。
【ほとんど毎日来てるでしょ?サイの研究してるんですか?】
(まさか……)
俺は、首を横に振る。
【サイを見ながら言葉を書いてる人、初めて見ました。アーティストさんですか?】
「ただの……趣味、です……」
その後、筆談と口話を織り混ぜて少し雑談をした。
彼は、この近辺の飲食店で働いているフリーターなのだという。この動物園の年間パスポートを持っていて、頻繁に来るらしい。何年も前から応援している大道芸人が居て、その人が園内でパフォーマンスをする日は、必ず「投げ銭」をしに来るのだという。
自分と同じように頻繁に来園している俺に、かなり前から気付いていて、ずっと「気になっていた」らしい。
【もし良かったら、LINEを交換しましょう】
「え……?」
どうして、そこまで積極的なのだろう……?
俺は、迷った挙句、交換に応じた。トラブルが起きたらブロックすればいいし、いざとなれば、吉岡先生に助けてもらえばいい。あの先生は40年以上ここに通っていて、現職の飼育員達や園長、多くの常連客とも顔馴染みだ。俺が ここに通いづらくなるような「何か」が起きたとしても、きっと守ってくれるはずだ。
早速、送られてきたLINEを確認する。
【小野田 恒毅(おのだ こうき)といいます。よろしくお願いします】
【倉本 和真です。よろしくお願いします】
その後、彼はLINEを使って「一緒に園内を回らないか」と誘ってくれたが、丁重にお断りした。「夕方から予定がある」と偽った。
その日以降、彼からは頻繁にLINEが来た。こちらからは特に何も訊いていないが、彼は よく一昔前のEメールを思わせる長い文章で、身の上を語った。きちんとした文法で、しっかりと筋の通った話が書ける人だった。【文才】すら感じた。
彼は母子家庭育ちの一人息子で、年齢は俺より2つ上だという。深夜残業続きのブラック企業に嫌気がさして脱サラした後、久方ぶりの【自由】を謳歌すべく、あえて正社員には ならず数年間フラフラしているという。
過去に虐待を受けたとかで、母親には「二度と近寄りたくない」と言い、今は貯蓄に ものを言わせ、故郷を離れて一人暮らしをしているという。
(慣れない土地で、切実に『友人』が欲しかったのだろうか……?)
俺は、彼に「好きな動物」とか「趣味」とか、当たり障りのないことだけを訊いた。
彼は「爬虫類が好き」らしく、趣味は「読書」だという。
悪意をもって近寄ってきたわけではなさそうだ。
お互いが今後も同じ動物園に通い詰めるなら、すぐにまた会えるだろう。
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【17.師事】
https://note.com/mokkei4486/n/n201832ffa514